裏切られた妻、夫に愛人から平手打ちを受けさせられた痛み第1話
この話は約2032字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。
祖父が亡くなったことを、夫に伝えに行った。
ホテルの個室に入った瞬間、夫の愛人・宮野美桜が思いっきり私の頬に平手打ちをくらわせた。
あまりのことに私は反射的に反撃したが、周囲の人間たちは「器が小さいな」と笑った。
「美桜は悪役の脇役をつとめるが、純粋なタイプで人を殴るのが苦手なんだ。お前を練習相手にしただけで何が悪い?」
夫はそう言い放った。
彼は私が決してそばを離れないと、思い込んでいるのだ。
だが、彼が忘れてしまったようだ。
この結婚は、そもそも祖父の意向で決まったものだったことを。
祖父はもうこの世にいない。
だから――
私も、ここを去るつもりだ……
* * *
祖父が亡くなったことを、夫の伊藤千智(いとう ちえ)に伝えに行った。
ホテルの個室に入った瞬間、夫の愛人・宮野美桜(みやの みお)が思いっきり私の頬に平手打ちをくらわせた。
あまりのことに私は反射的に反撃したが、周囲の人間たちは「器が小さいな」と笑った。
「美桜は悪役の脇役をつとめるが、純粋なタイプで人を殴るのが苦手なんだ。お前を練習相手にしただけで何が悪い?」
夫はそう言い放った。
彼は私が決してそばを離れないと、思い込んでいるのだ。
だが、彼が忘れてしまったようだ。
この結婚は、そもそも祖父の意向で決まったものだったことを。
祖父はもうこの世にいない。
だから――
私も、ここを去るつもりだ。
……
「美桜って、力が弱いから、本気で叩いたって、どれだけ痛いっていうの?
彼女は女優だ。顔がどれほど大事か、主婦のお前にわかるはずないよな?」
千智の皮肉混じりの声に、室内の人たちが嘲るような表情を浮かべ、私の頬の赤い痕をじろじろ見つめていた。
美桜は、しなだれかかるように体を彼の胸に寄せながら、おそるおそる手のひらを広げた。
「花音さん、本当に『面の皮が厚い』のね。叩いたら、こっちの手が痛くなっちゃった」
すかさず千智は彼女の手を取り、心底心配そうに顔をしかめた。
「よしよし、痛かったよな。ふーってしてあげるよ」
二人の親密なやり取りに、またしても場内からどっと歓声が上がった。
「さすが千智さん!奥さん、完全に言いなりだな。一言で、まったくピクリともしないとは!」
「コツ教えてよ。どうしたら、あんなに聞き分けのいい嫁にできるんだ?」
千智は無関心そうに目を持ち上げ、私をじろりと見た後、鼻で冷たく笑った。
「こんな女に、コツなんて要るもんか?
俺に逆らったら、今月の家族の集まりは出ないって言うだけで十分だ。おじいさんが怒るのを恐れて、どうせ泣きついてくるからさ」
笑い声はますます大きくなり、私はドアの前に立ったまま動けなかった。
進むことも、退くこともできず、体の芯まで冷えていた。
――結婚前は、千智の方からアプローチしてきたのに。
みんなの期待に応えて彼と結婚しただけなのに、どうしてすべてがこうなってしまったんだろう。
私は視線を落とし、手の甲に落ちた涙を見つめながら、やっとの思いで口を開いた。
「千智、じいさんが亡くなった」
しかし、彼は人に囲まれ、美桜にケーキを食べさせていて、私の方など一瞥もしなかった。
私はその光景を見つめたまま、声を強くしてもう一度言った。
だがその声も、周囲の騒がしさにかき消された。
もう我慢できずに一歩踏み出すと、美桜はすぐに彼の胸にしがみついた。
「千智くん、この女また私を殴ろうとしてる!きっと私の顔を壊して、撮影に出られなくさせたいのよ!」
千智は即座に身を起こし、彼女をかばいながら私を睨みつけた。
「花音、たかが冗談だろ?いつまで引きずってるんだ!
俺と結婚するために手を尽くした日から、自分の運命は覚悟してたはずだろ?」
その怒号に、私は目の奥が熱くなり、立っているのもやっとだった。
「千智、あなたのおじいさんは戦場でうちのじいさんを救ってくれた。その恩返しとして、私はあなたに嫁いだ。
じいさんは自分の持てるすべてをあなたに託した……それでも、私ってそんなに価値のない存在なの?」
彼は一瞬息を呑み、すぐに冷たい目を向けた。
「俺の友達の前で、よくそんな話ができるな。家柄で俺を脅すつもりか?
そうだよな。お前みたいに出自以外何も持ってない女って、それぐらいしか武器がないもんな」
彼は私を見下ろしながら吐き捨てた。
周囲の笑い声も、すっと消えていた。
胸が押しつぶされそうなほど苦しかった。
そのとき、美桜がにこやかに強い酒を差し出してきた。
「プライドの低い女が、そんな偉そうな口聞いていいの?この酒を一気に飲み干したら、私が代わりに千智くんをなだめてあげる」
私は手を振り、そのグラスを叩き落とした。
ガラスの破片が床に飛び散り、美桜の目が潤んだ。
すぐに千智が怒鳴った。
「美桜には手を出すなって言ったはずだ!聞いてなかったのか?
彼女を傷つけた罰として、今月の家族の集まりには行かないぞ!」
私は目の前の千智をじっと見つめた。
ふと、この結婚がとてつもなくくだらなく思えてきた。
みんなの視線を感じながら、私は黙って背を向け、そのまま歩き去った。
縦書き表示中:本文は右から左へスクロールします(← → キーでも移動できます)