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荒れていく彼の心を見送って第3話

この話は約2555字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。

大河は書斎で残業していた。

深夜11時。温めた牛乳をマグカップに注ぎ、私は書斎へと向かった。

ドアがわずかに開いていた。大河は電話中だった。もうずっと聞いていなかった、あのひどく甘く、柔らかな声で。

「うん、先に寝て。また明日話そう。俺もだよ」

通話を切って顔を上げた大河は、ドアの隙間に立つ私を見て、一瞬だけ固まった。

「……まだ起きてたのか」

「部下に対しても、いつもそんな優しい声で話すの?」

「普通に話しただけだろ。また変な勘ぐりをするなよ」

私は何も言わず、背を向けてその場を離れた。

背後で、書斎のドアがかちりと冷たく閉まる音がした。

昔は大河のほうからあのドアを閉めることなんて、一度たりともなかったのに。

それから20分ほど待つと、ようやく大河が寝室に入ってきた。まだ起きている私を見て、わずかに目を細める。

「大河、聞いてほしい話があるの。私には昔から、不思議な力があって。誰かに触れると、その人が心の中でいちばん大切に想っている人の顔が見える」

ジャケットを脱ごうとしていた大河の手が、ぴたりと止まった。

「7歳のとき、初めてあなたに触れた瞬間、見えたのは私だった。18歳で手を繋いだときも、私だった。プロポーズの日も、私だった。

……そして結婚3周年の朝。あなたの喉仏に触れたとき、二つの顔が見えた。私と、本間さんの顔が」

しんと静まり返った時間のあと、大河はふっと吹き出すように笑った。

「想像力がたくましいな。最近ひとりで家にいることが多いから、気が滅入ってるんじゃないか?」

「冗談で言ってるんじゃない。一言一句、ぜんぶ本当のことよ」

大河の口元から、すっと笑みが消えた。

「お前やっぱり疲れてるよ。一度、ちゃんと診てもらったほうがいいかもしれないぞ」

私は立ち上がり、大河の手を握った。

「1秒だけでいい。今すぐ、頭の中で誰か一人を思い浮かべて。あなたの心の中に今、誰がいるか、私が当ててみせるから」

大河は、さっと手を引き抜いた。

決して乱暴な動作ではなかった。けれどそこに、微塵の迷いすら存在しなかった。

「いい加減にしてくれ!秘書に何か不満があるなら直接俺に言え。彼女にはちゃんと付き合っている相手がいるんだぞ。そんな根も葉もない妄想で、彼女を悪く言うのは失礼だろ!」

大河はジャケットを掴み直すと、そのまま寝室を出ていった。

私はその場に立ち尽くした。先ほどまで大河の手を包んでいた私の手は、まだ何かを掴むような形のままだった。

午前2時。微かなタバコの匂いをさせて、大河が寝室に戻ってきた。

私はそっと目を閉じ、眠っているふりをした。

大河は静かにベッドへ潜り込み、少し間を置いてから、後ろから私をそっと抱き寄せた。

目を閉じたまま、彼の体温に神経を集中させる。

浮かび上がったのは、ただ一つの顔だけだった。

望美の顔。

私の顔はもう、彼の世界のどこにもなかった。

腰に回された大河の腕の重さと、耳元をくすぐる穏やかな寝息。

21年間、ずっと当たり前のように隣にいたのに。彼の心の中から「私」という存在を見つけられなかったのは、これが初めてだった。

そっと、彼の腕の中から抜け出す。

大河がうっすらと目を開け、寝ぼけた声で「……動くなよ」とつぶやいた。

彼の呼吸が再び規則的なリズムに戻るのをじっと待ち、私は寝返りを打って、完全に背を向けた。

カーテンの隙間から差し込んだ月明かりが、部屋の隅にあるドレッサーを照らしている。

私のドレッサー。大河はその上に何が置いてあるか、一度だって気にしたことがなかったのに。

白々とした夜明けが近づくころ。私はそっと起き上がり、小さなスーツケースに最低限の荷物を詰め込んで、ゲストルームへと移った。

翌朝、朝食の時間。大河が、ゲストルームのドアの前に揃えられた私のスリッパに気がついた。

「……そっちで寝たのか?」

「昨夜、どうしても眠れなくて。大河を起こしちゃ悪いと思ったから」

大河は「そうか」とだけ口にして、すぐにまた手元のスマホへと視線を戻した。

それ以上は、何も聞かれなかった。

……

ゲストルームで寝るようになって3日目。

妊娠検査薬に、くっきりと2本の線が浮かんだ。

病院で血液検査を受け、「妊娠6週目です」と告げられる。

もらったばかりの小さなエコー写真を日記帳のページに挟み込み、その余白に、ペンで短く書き添えた。

【あなたがこの世界に来てくれたとき、パパの心には、もうママがいなかったよ】

その足で、大河の会社へ向かった。

オフィスビルの車寄せに着いたとき、ちょうど大河が、望美のために車のドアを開けてあげているところだった。

望美は助手席へと滑り込む。

――かつて、そこが私の指定席だった場所に。

彼女が頭をぶつけないよう、大河はルーフの縁に右手を添えて守っていた。

昔は、私にしか見せなかったはずの、あの仕草で。

「運転手さん。すみません、このまま戻ってください」

バッグに入ったエコー検査の報告書が手元に触れていた。

それでも私は、車を止めてとは言わなかった。

その夜。帰宅した大河を、私はリビングのソファで待っていた。

「今日、お昼に会社まで行ったの」

玄関で革靴を脱ぎながらも、大河の動きは一瞬たりとも止まらなかった。

「なんでオフィスまで上がってこなかったんだ?」

「行っても、なんて言えばよかったの」

大河がちらりとこちらに視線を向けた。その瞳の奥に、明らかな苛立ちが滲んでいる。

「また何か言いたいことがあるのか?」

「あなたが、彼女のために車のドアを開けてあげるのを見たわ。頭を庇ってあげるのも。昔は、私にしかしてくれなかった仕草なのに」

大河は大げさにため息をつき、眉間を押さえた。

「実里。秘書に車のドアを開けてやるくらいのことは、ただのビジネスマナーだろ。昔のお前はもっと物分かりがよくて、そういうのもちゃんと分かってくれていたじゃないか」

「大らかにしろ、って言うの?あなたが私にだけくれていた特別を、他の誰かにそっくりそのまま差し出しても、私は賢い妻として微笑んでなきゃいけない……そういうこと?」

彼は困ったような顔で言った。

「今日は疲れてるんだ。お前と不毛な言い争いはしたくない」

それだけ言い捨てて書斎に入り、またあのドアをピシャリと閉めた。

以前の私なら、見て見ぬふりもできたかもしれない。

けれど今はもう、ただひどく疲れていた。

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