若様、お引き取りください第1話
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あれは、東原清吉(ひがしはら せいきち)と婚約を交わしてから五年目のことだった。
私たちが結婚の準備を進めていたその時、彼の初恋が戻ってきた。
それ以降、彼が私にしてくれたすべての約束は、無意味なものになった。
初恋のために、彼は私のすることなすこと全てを嫌うようになった。
あの人の前では、私は何の価値もない存在だった。
もう疲れてしまって、私は身を引く決心をした。
彼らの幸せを願い、自ら姿を消した。
清吉の人生から、完全に。
なのに――
彼は後悔して、泣きながら私を追いかけてきた……
* * *
「おばあさん、決めました。清吉との婚約を解消します。お誕生日を見届けたら、北城市を去ります」
森青葉(もり あおば)がそう告げると、東原清吉(ひがしはら せいきち)のお祖母さん・東原友子(ひがしはら ともこ)は深いため息をついた。
「清吉がこの頃ひどくふらふらしていて、あなたには辛い思いをさせたわね。ここ何年ものあなたの努力、おばあさんは全部見てきたよ。
でもね、清吉の心にもあなたがいないわけじゃないと思うんだ。あの子はただ迷っているだけ。もう少し待ってみたら、きっと戻ってくるでしょう。
本当に婚約を解消するつもりなのかい?おばあさんの誕生日まであと十日あるけど、もう一度考えて?」
青葉は首を横に振り、きっぱりとした口調で言った。
「おばあさんと私の五年の約束が、もうすぐ終わります」
青葉の母が、彼女を連れて京極家という億万長者の家に嫁いだのは、七歳の時だった。
「厄介者」と呼ばれた青葉は、京極家の人々から冷たく扱われ、虐げられた。
母はただ「お利口にしなさい」「私の立場を理解しなさい」と繰り返すばかり。
七歳の誕生日、無理やり大量の海鮮を食べさせられ、ひどいアレルギー反応を起こした。
あのとき、友子が病院に連れて行ってくれなければ、青葉の命はなかったかもしれない。
それ以来、友子が人前で堂々と口にしてくれたおかげで、京極家での彼女の暮らしは少しだけましになった。
青葉はその恩を、ずっと忘れたことはなかった。
だからこそ、友子が孫の清吉との婚約を提案し、婚約者として彼を支え、泥沼から救ってほしいと頼まれたとき、彼女は迷わず了承した。
それは、彼女がずっと願ってきたことだった。
彼女は、清吉を愛していた。
けれども、今になってようやく気づいた。
「愛だけでは、どうにもならないこともある」と。
青葉はもう疲れ果てていた。だから、諦めることにしたのだ。
清吉が大学二年の時、初恋の三崎真琴(みさき まこと)が突然、何の前触れもなく姿を消した。
戸籍も抹消され、まるでこの世からいなくなったように。
清吉は受け入れられず、あらゆる手段を使って真琴を捜し続けた。
だが、真琴は煙のように消え、どこにもいなかった。
ついには心が壊れかけ、精神も不安定になった。
独り息子が狂っていくのを見ていられなかった東原家は、友子が青葉にこう頼んだ。
「お願い、清吉を助けてやって。婚約して、彼を泥沼から引き上げてあげて。一生を犠牲にしろとは言わん。たった五年でいい。
五年経ったら、清吉の状態がどうであれ、婚約解消したいなら、おばあさんは必ず応援する。
これまでのばあさんの世話への恩返しだと思って、頼めないか?」
青葉は一切の迷いなく、承諾した。
それほどまでに、清吉という人を深く、愛していたのだ。
京極家に入ったばかりの頃、継兄の京極久人(きょうぎょく ひさと)に犬と餌を奪い合えと命じられたとき、止めてくれたのは彼だった。彼がかばってくれた。
学校で「捨て子」と嘲られたとき、真っ先に立ち上がってくれたのも彼だった。「森青葉はこの俺が守る」と、皆の前で言ってくれた。
母でさえ忘れていた彼女の誕生日を覚えていて、ケーキとプレゼントを用意してくれた。
彼に恋をしたのは、呼吸をするのと同じくらい自然なことだった。
犬小屋から救い出してくれたその日から、彼は彼女の世界でただ一つの光になった。
婚約してからは、彼を宝物のように扱い、心を尽くして支えた。言葉ひとつ、態度ひとつにも気を配り、まるで壊れ物のように大事にした。
彼がやりたいことがあれば、いつだって無条件で背中を押した。
本来ならパソコンに向かいコードを書くのが得意なはずなのに、彼のため、東原家の意向に従い、ビジネスを学び、会社を管理した。
世間では「金目当てのしたたかな女」「ただの厄介者」と罵られていたが、そんな評価もどうでもよかった。
婚約二年目、彼は徐々に回復し、真琴に似たインフルエンサーと付き合い始めた。どこへ行くにも一緒だった。
その子に夢中になった彼は、父に資金支援を頼んで断られると、青葉のもとに来た。
青葉は何の疑いもなく支援した。
「森青葉は彼氏に浮気されても平気」――そんな嘲笑が街中を駆け巡った。
それでも、青葉は信じていた。「いつか彼は自分の真心に気づいてくれる」と。
清吉は結局、そのインフルエンサーとも別れ、「ようやく自分の本心が分かった。これからは、目の前の君を大事にする」と青葉に誓った。
青葉は心から喜んだ。ようやく努力が報われたと思った。自分こそが世界一幸せな人間だと信じた。
……あの日、真琴が突然、姿を現すまでは。
それ以来、清吉は変わった。
彼は真琴とともに、北城の町を朝から晩まで歩き回った。
彼女と旅行にも行き、青葉には一言の断りもなかった。
青葉が連絡しなければ、十日も半月も何の音沙汰もなかった。
電話をかければ、返ってくるのは苛立ちと叱責ばかり。
青葉はようやく理解した。
これまでの自分の想いは、ただの笑い話だったのだと。
いくら長く寄り添っても、初恋が一度微笑むだけで、すべては無意味になる。
だから彼女は、身を引くことを選んだ。
彼らの幸せを、願うことにしたのだ。
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