花火が散り、夢は泡になった第3話
この話は約2527字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
千秋の悲鳴が、皆の再会の語らいを遮った。
リビングで積み木をしていた武文が真っ先に駆け寄り、勢いのまま元子の足に頭から突っ込んだ。
「悪い女!ママを突き飛ばして、パパを奪った!大嫌い!」
不意を襲われた元子は、よろめいて傍らの骨董棚へと倒れ込んだ。青磁の花瓶が砕け散り、鮮血が飛び散った。
修一は元子に一瞥もくれず、気を失った千秋を横抱きにして、そのまま冷たい表情で言い放った。
「もし千秋に何かあったら、絶対に君を許さない」
血が目に流れ込み、元子は口を開いたが、言葉は一つも出てこなかった。
そうか、自分は修一の世界では本当に大した存在じゃなかったんだ。
彼女は苦笑いを浮かべながら、血にまみれた手をゆっくりと上げ、自分で救急車を呼んだ。
だが、病院で傷の洗浄が半分ほど進んだところで、修一のボディーガードが手術室に飛び込んできた。
元子は千秋の病室へと連れて行かれた。
修一は彼女の慌ただしく包帯を巻かれた傷を見つめ、わずかに眉をひそめた。
しかし、彼の口から出た最初の言葉は、気遣いではなかった。
「千秋が救急車の中で急性腎不全を起こした。君に、彼女へ腎臓を一つ提供してほしい」
その言葉に、元子は顔を上げ、皮肉っぽく言った。
「それも契約に書いてあったの?断れば、今度は何を要求するつもり?」
修一は眉を寄せ、できるだけ穏やかな声で言った。
「元子、医者が言っていた……千秋には、もう本当に時間がないんだ」
一瞬、間を置いて、彼は何かを決意したように息をのんだ。
「君はずっと子供が欲しいって言ってたよな。もし腎臓を提供してくれるなら約束する。代わりに俺たちの子供を作ろう。そしてこれから先、栗原夫人の座を誰にも奪わせない」
元子はそれがたまらなく皮肉に思えた。
修一がこんなに優しい口調で話しかけてくるなんて、今まで一度もなかった。
もっと皮肉なのは、昨日までの彼女なら、この言葉に飛び上がって喜んだだろうということだ。五年間の思いがようやく実ると信じて、迷わず頷いたに違いない。
だが今の彼女は、修一に答えを求める。
「修一、あなたの目には、私の愛も、結婚も、そしてこの身体さえも、すべて値札のついた取引の道具にしか見えないの?」
修一は元子の視線に射抜かれたように、言葉を失った。
元子は彼の左手の薬指に目をやった。そこにあったはずの結婚指輪は、少し古びたシンプルな指輪に替わっていた。
しかもその同じデザインを、彼女は千秋の手にも見たことがある。
そんなに待ちきれなかったのか?
元子は苦笑した。二年前の交通事故のことを思い出す。あのとき修一は危険も顧みず、自分の前に立ちはだかってくれた。
命の恩返しだと思えばいい。彼女はゆっくりとうなずいた。
「いいわ、提供するよ」
修一は元子があまりにあっさりと承諾したことに驚き、複雑な光を瞳に宿した。
「他に望むことがあるなら、何でも言ってくれ」
視線がぶつかる。元子はもう期待などしていなかった。ただ口をついて出た。
「じゃあ、手術の前まではずっとそばにいて。私が許すまで、一歩も離れないで」
修一は眉をひそめ、少し困ったような顔をした。
「俺……」
それを見て、元子は口元をわずかに歪め、話を遮った。
「冗談よ。ひとつだけお願いがあるの。あなたが外した結婚指輪を返してほしいの。それは、母が遺してくれた形見だから」
修一は思わず左手の素朴な指輪に視線を落としたが、何も説明しなかった。
「わかった」
元子は静かに彼を見つめた。自分の「簡単な」お願いに、彼がほっとしたように息をついた。
彼は永遠に知るよしもないのだが、あの結婚指輪は新谷家に代々伝わるものだ。
今それを取り戻すということは、もう彼とは完全に終わりにするという意味だった。
検査で適合が確認された後、元子は千秋の隣のVIP病室に入った。
意外なことに、翌朝早く、修一が保温ポットを手に病室のドアを押し開けて入ってきたのだ。
「医者が言うには、手術は一週間後に予定されているそうだ。その間、ちゃんと栄養のある食事を取らないといけない」
元子は驚いた。修一がどうしたというのだろう?まさか自分のために料理を?
次の瞬間、修一は保温ポットの蓋を開けた。中には刻んだネギが散らされた鯛とエビの潮汁が入っている。
「腎臓を提供してくれるって聞いて、千秋がとても感謝してる。
まだベッドから起きられないから、代わりに俺が様子を見に来たんだ」
元子の視線がその潮汁をかすめた。修一が彼女を見に来た理由が結局千秋のためだったことと、結婚して五年も経つのに、彼が彼女に海鮮アレルギーがあることを覚えていなかったこと、どちらを笑えばいいのか、一瞬分からなくなった。
そのとき、医者が看護師を連れて回診にやって来た。
潮汁を見た瞬間、医者はわずかに眉をひそめた。「栗原さん、新谷さんは海鮮に重度のアレルギーがあります。特に手術前は、合併症を引き起こす可能性のあるものは避けてください」
その言葉が終わると同時に、病室の空気がぴたりと静まり返った。
修一は保温ポットを見つめ、初めて呆然としたような表情を浮かべた。
少し思い返したあと、ようやく視線を元子の蒼白な顔に向けた。
だが元子はその視線を避けた。
彼女は修一が自分の好き嫌いをすべて覚えているなど、最初から期待していなかった。
結婚一周年の家族の食事会で、彼女は蟹味噌入りの菓子を誤って口にし、アナフィラキシーショックを起こしてそのままICUに運ばれた。
そのとき修一は冷淡ではあったが、法的には夫として無菌服を着て一晩中そばにいてくれた。
あの時の彼女は、それだけで嬉しかった。死にかけた代わりに、彼のそばにいられたのなら、それだけで報われたと思ったのだ。
でも今は――
修一は元子を見つめ、その声にはどこか後ろめたさと謝意が滲んでいた。
「悪かった。これからはちゃんと覚えておく」
元子は何も言わず、ただ静かに手を伸ばして、保温ポットをそっと脇へ押しやった。
修一、私たちに「これから」なんて、もうない。
修一が去る前に、指輪の箱をひとつ残した。中には男物の指輪が一つ。
元子は左手の指輪を外し、それと並べて置くと、何の表示もない国際電話番号へと電話をかけた。
「一週間以内で栗原修一との離婚を成立させて。報酬は腎臓一つです」
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