花火が散り、夢は泡になった第1話
この話は約2750字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。
結婚して五年、新谷元子(しんたに もとこ)はいまだに処女のままだった。
夫の栗原修一(くりはら しゅういち)が「昔、傷を負っていて、夫婦の営みには興味がない」と言っていたからだ。
出張から戻ったある日、元子はいつも冷淡な夫が、別の女を抱きしめるのを目撃した。
その瞬間、彼女は悟った。夫は不能なのではなく、その女のために貞操を守っていたのだと。
その時、元子は完全に諦めることにした。五年間続いた一人芝居を終わらせると決めた。
* * *
結婚して五年、新谷元子(しんたに もとこ)はいまだに処女のままだ。
それは、夫の栗原修一(くりはら しゅういち)が五年間の結婚契約書に三つの条件を書き込んだからだ。
第一、婚姻期間中、元子は決められた日以外に修一と同じ寝室を共にしてはならない。
第二、同じ空間にいるときは、元子は必ず消毒液で全身を洗浄すること。
第三、毎週病院で検査を受け、自分が清らかな処女であることを証明し続けること。
愛に盲目になった元子は、何も考えずに契約書に署名してしまった。
その後の五年間、彼女は契約書を厳格に守り続けた。
だが年越しの夜、最後の一筋の花火が夜空に散り、深夜便で帰宅した元子はこわばった脚を引きずりながらようやく別荘の中へ入った。そして二階の主寝室で目にしたのは——
いつもは情欲に染まらぬはずの夫がベッドの前で片膝をつき、片手でスラックス越しの隆起を押さえ、もう一方の手でベッドに横たわる女の頬に抑えきれぬほど優しく触れながら、曖昧に囁く姿だった。
「千秋……」
元子の頭の中で雷が鳴り響いた。
千秋、浅野千秋(あさの ちあき)。
修一の、すでに海外で結婚している初恋。かつて「栗原夫人」になりかけたあの初恋の人だった!
部屋の中で、修一は低くうめき声を漏らすと同時に、曖昧な目つきで千秋の額にそっと口づけを落とした。立ち上がろうとした瞬間、彼は動きを止めた。
「……どうして戻ってきた?」
数歩でドアを出て、元子の視線を遮るように立ちはだかる。瞳の奥にあった優しさは跡形もなく、あるのは邪魔された苛立ちと冷淡さだけだ。
その一瞬で、修一に抱いていたすべての印象も、必死に守ってきた幻想も、音を立てて崩れ去った。
元子はいまでも覚えている。五年前、修一と初めて出会った日のことを。
修一は元子より十歳年上で、元子の父の友人だった。
初めて会ったとき、彼女はただ「この人は冷たい」と思った。
内面から外見まで、近寄りがたいほど冷えきっていた。
あの頃の元子は誰よりも気位が高く、周りが修一を「高嶺の花」と讃えれば讃えるほど、彼女は逆に、どうしても自分がそれを手中に収めてみせると決意した。
そして、狂ったように彼を追いかけた。
偶然を装って接近し、酒席では彼の杯を代わりに引き受け、栗原グループと新谷グループの提携の橋渡しまでした。
彼女がどんなに工夫を凝らしても、彼の目にはいつも子供のように映っていた。
長年の想いも一度の振り向きさえ得られず、元子はついに諦める決心をした。
酔いつぶれて意識が朦朧とする中、修一が現れ、結婚を申し出てきた。しかも五年契約の書類付きで。
元子はようやく努力が報われたと思い、迷いなく頷いた。
だがこの五年間、どんなに元子が誘惑しても、たとえ裸で彼の前に立っても、修一の言葉はただ一つ──「俺は傷を負っている。この手のことには興味がない」
元子はその言葉を信じ、彼は生まれつき冷たい人間なのだと思い込んでいた。
修一のプライドを守るため、外には自分が子どもを産めないのだとまで言っていた。
だが今日になってようやく気づいたのだ。
生まれつき冷淡?興味がない?──そんなものは全部嘘。彼はただ、別の誰かに忠実でいたかっただけなのだ。
彼女は震える声を押さえ、目頭が熱くなった。「前に言ってたよね。今年は誰かと一緒に年を越したいって。だから……」
新年の鐘が鳴る前に彼のもとへ帰ろうと、三か月分の仕事を一か月に詰め込み、雷雨の危険を冒しても、彼女は決然と飛行機に乗った。
しかし、彼女を待ち受けていたのは、まさにこの光景だった。
喉まで込み上げた問いを飲み込む間もなく、千秋の眠たげな不満の声が響く。
「修一、誰と話してるの?うるさいわ」
女が扉を押し開けて現れると、寝起きの甘ったるい声が部屋に響いた。
修一は眉をひそめた。「そんな薄着で出てくるな。また風邪ひいたら泣いても知らないぞ」
彼は素早く動き、部屋に戻って毛布を掴み、彼女の肩にそっと掛けた。
千秋はようやく元子に気づいたように、修一の腕の中で身を預けながら、好奇心に満ちた目で彼女を上から下まで眺めた。
「あなたが修一の奥さん?」
その声は親しげで、ごく自然だった。
元子の返事がなかなか返ってこないのを見て、修一は眉をひそめる。
「元子、聞かれたら答えるのが最低限のマナーだろう」
元子は目の前でぴったりと寄り添う二人を見つめ、目尻を赤くしながら笑った。
「じゃあ、妻の目の前で他の女といちゃつくのも、あなたの言う『マナー』なの?」
その言葉が放たれた瞬間、空気が一気に張り詰めた。
元子が、彼がせめて何か弁解してくれると思ったその時、修一は彼女を完全に無視し、千秋を連れて階下へ降りていった。
元子の感情はその瞬間、ついに爆発した。
「私はあなたの妻よ!どうしてこの女がうちにいるのか、しかも私の服を着てる理由を説明してくれないの?」
返ってきたのは、息が詰まるような沈黙だけだった。
しばらくして、元子は千秋のくすりと笑う声を聞いた。彼女はオランダ語で聞いた。
「この人があなたの選んだ栗原夫人?まるで子どもみたいに大声を上げて、あなたには全然釣り合わないわね」
修一は表情ひとつ変えず、同じくオランダ語で答えた。
「釣り合うかどうかなんてどうでもいい。大事なのは、外では手がかからず、面倒ごとをうまく片づけてくれることだ」
二人はまるで周囲に誰もいないかのように会話を続けた。
彼らは知らない。修一を深く愛していた元子は、すでにオランダ語を覚えていたということを。
千秋の嘲りも、修一の冷淡さも、はっきりと聞き取れた。
その瞬間、彼女の中の栗原夫人としての誇りはすべて崩れ落ちた。
暫くしてから、千秋があくびをしながら階段を上がっていくのを見送り、元子は目を赤くしながら、去ろうとする修一を呼び止めた。
「本当に、私に話すこと、何もないの?」
修一はようやく足を止め、穏やかな表情のまま、まるで何でもないことを話すように言った。
「千秋が病気なんだ。もうあまり時間がない。だから、最後までそばにいてやりたい」
その言葉を聞いた瞬間、暖房で赤らんでいた元子の頬が、再び青ざめた。
何か言おうと口を開いたそのとき、階上から五、六歳ほどの小さな男の子が駆け下りてきた。
彼は修一の胸に飛び込み、澄んだ声で叫んだ。
「パパ!」
縦書き表示中:本文は右から左へスクロールします(← → キーでも移動できます)