花散るころ第3話
この話は約2425字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
ソファに崩れ落ちたまま、動けない。頭の中で、さっきの陸の言葉が何度もリフレインする。
彼はあの女を抱くのだろうか。キスをするのだろうか。
彼のオフィスに駆けつけると、そこには普段見かけない若い秘書が一入るだけだった。
彼女は私を見るなり、愛想よく声をかけてくる。
「奥様、社長はいま会議中でして。よろしければ中でお待ちください。
コーヒーでもお持ちしましょうか?」
私は彼女の気遣いを丁重に断り、部屋へと足を踏み入れた。
陸のオフィスは、いかにも彼らしく洗練され、満ち足りた空間だ。
広々とした執務スペースの奥には、専用の休憩室とゲームルームまで完備されている。
心をかき乱されたまま、私は迷わずゲームルームに向かった。何も考えずにゲームに没頭すれば、この胸騒ぎも紛れるかもしれないと思って。
「見ちゃだめ。恥ずかしいもん」
甘ったるい笑い声が聞こえ、私はとっさにヘッドホンを外した。
「はいはい、わかったよ。着替えるまで見ないから」
陸の声だ。
姿は見えなくても、彼がとびきり甘やかした顔で言っているのが、手に取るようにわかる。
ゲームルームのドアが少し開いていた。二人のじゃれあう声が、いやにはっきりと漏れてくる。
私は吸い寄せられるように、隙間から中を覗き込んだ。
背の高い彼が、やれやれと首を横に振りながら後ろを向く。
小柄な女が黒いスーツを脱ぎ捨てると、下からポリス風のバニーガールの衣装が現れた。さらにバッグからウサギの耳を取り出し、頭につける。
女は背後から陸に抱きついた。
「動かないで!あなたを逮捕します。さあ、手を挙げて」
陸はクックッと肩を揺らして笑い、降参だと言わんばかりに両手を挙げ、ゆっくりと振り返る。
女は不満そうに彼の胸に飛び込み、地団駄を踏んで頬を擦り付けた。
「もうっ、笑わないでよぉ」
陸はたまらないといった様子で苦笑し、いとおしそうに彼女を包み込んだ。
「ごめんごめん。可愛いよ、僕のウサギのポリスさん」
勝ち誇ったような顔で、女の悪戯な手が彼のシャツの隙間へとするりと忍び込む。
胸板から腹筋をなぞり、そのまま下へ、下へと。
陸の息遣いが荒くなるのがわかった。瞳の色が暗い熱を帯びる。高く挙げていた両手が下りてきて、女の柔らかいお尻をしっかりと支え、そのまま軽々と抱き上げた。
女はその体勢のまま彼の首に腕を回し、顔をあげて唇を重ねる。
目の前の光景に、目の奥が焼けるように痛い。瞬きをした拍子に、涙が頬を伝い落ちた。
一生私だけを愛すると、幾度となく耳元で囁いてくれた男が、今は理性を失った獣のように、他の女にありったけの情熱を注いでいる。
唇をきつく噛みしめ、漏れそうになる嗚咽を必死に飲み込んだ。
よほど愛しているのだろう。私の前では年々落ち着き払い、冷静になっていった彼が、今はまるで欲求を抑えきれない少年のように焦れている。
彼は猛るままにウサギの衣装を引き裂き、そのままデスクへと押し倒した。
女も彼の首に腕を絡ませ、熱く応えている。
艶めかしい音が、途切れることなく耳を犯す。
全身の血が凍りついたように冷えていく。金縛りにあったように動けず、私はただ立ち尽くすことしかできなかった。
二人の場所はデスクからソファへ、そして最後は休憩室へとなだれ込む。
固く閉ざされた休憩室のドア。そこから漏れ聞こえる激しい音を背に、私は音を立てないようにそっと、ゲームルームの扉を閉めた。
情事が終わるまで、たっぷり一時間はかかっただろうか。
再び姿を現した二人は、何事もなかったかのように身なりを整えていた。女はいつの間にかピンク色のスポーツウェアに着替え、眩しいほどに溌剌としている。
大きな社長椅子に深く腰掛けた陸の膝の上に、女が猫のように甘えて座っている。
「ねえ陸さん、夜も一緒にいてよ。ナース服も用意してあるんだよ?」
陸は女の髪を優しく梳きながら目を細める。「うさちゃん、まだ食べ足りないのかい?」
女は拗ねたように彼の胸を指先でつつく。「もう、陸さんのいじわる。いじめっ子なんだから」
その時、オフィスのドアがノックされた。
陸の友人たちが連れ立ってやってきたのだ。
女は驚いた小動物のように、陸の膝から飛び降りる。
友人たちは二人の様子をねめ回し、意地悪くニヤニヤと笑った。
「おっと、こりゃお邪魔だったか?陸と愛菜ちゃん、盛り上がってる最中だった?」
口ではそう言いながらも、彼らは遠慮なく土足で踏み込んでくる。
「陸、頼まれてたルビー、落としてきたぜ。自分で行かなかったのは、愛菜ちゃんへのサプライズだろ?」
「それにしても愛菜ちゃん、今日もセクシーで可愛いねえ。俺に言わせりゃ、美晴なんかよりずっと若くてピチピチしてるよ」
結婚して数年。陸は私を、彼の友人たちにほとんど会わせようとはしなかった。「あいつらは女癖が悪いから、美晴には近づけたくないんだ。君は僕が守るよ」なんて言って。
けれど彼らは、この女とはずいぶん親しげだ。こんなにも、仲睦まじいなんて。
私が引き合いに出された瞬間、陸の眉間に深い皺が刻まれた。
「美晴は僕の大事な姫君だ。お前ら、口が裂けても彼女の前で余計なこと言うなよ。……もしバラしたら、ただじゃおかないからな」
彼は真剣な眼差しで仲間たちを威圧し、こう付け加えた。
「僕にとっては、美晴が一番だ」
「はいはい、わかったよ。お前の奥さんが世界一だよ」
「それより、晩飯くらい一緒にどうだ?安心しろって、門限までにはちゃんと帰してやるからさ」
「そうだな、今日は愛菜ちゃんに一杯奢らせてくれよ」
陸は強引に女の腰を引き寄せ、彼女はバランスを崩して彼の胸に倒れ込む。
「僕が代わりに飲んでやるよ」
「うわあ、過保護だねえ。はいはい、じゃあ行こうぜ」
賑やかな笑い声を残して、彼らは連れ立って出て行った。
その中には陸の友人や幼馴染みだけでなく、彼の従兄弟まで混ざっていた。
彼らはあの女とすっかり打ち解け、親しげに名前を呼んでいる。
……完璧な愛を手に入れたと信じ込んでいた私が、とんだピエロだったわ。
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