花婿は俺なのに、オーダースーツを着るのは親友だった第1話
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彼女の柊涼音(ひいらぎ すずね)は数字に弱く、買い物をするたびに数を一つ多く間違える。
2人で出かけるときも、3人分の席を予約する。
「ごめん、間違えちゃった。あなたの親友も呼ぶ?」
俺・瀬名陽色(せな ひいろ)の誕生日にも、プレゼントを二つ買ってくる。
「ごめん、買いすぎちゃった。あなたの親友にも一つあげたら?」
そんなことが続くうちに、俺は感覚が麻痺し、このお決まりのパターンを受け入れるようになっていた。
結婚式の衣装を試着する日までは。
涼音は、ふいに手を伸ばして俺を遮った。
「陽色、あなたの衣装はあっちよ。これはグルームズマン用だから、親友の司に着てもらうの」
顔を上げると、目の前にあるオーダースーツは美しいシルエットに仕立てられており、襟には銀色に輝くダイヤモンドがあしらわれていた。
一方で、新郎である俺に残されたスーツは、どこにでもあるような安っぽい既製品で、シワが寄って薄汚れている。
その瞬間、俺の中で何かがプツリと切れた。
たった1着の高級オーダースーツまで鳴海司(なるみ つかさ)に譲る彼女に、これ以上執着する理由がどこにあるというのだろう。
俺は黙って視線を落とし、E国にいる指導教官へメッセージを送った。
【黒木先生、そちらの研究所はまだ人を募集していますか?】
* * *
俺が怒っていることに気づいた涼音は、顔色を変えた。
「司は10年来の親友でしょ。彼にグルームズマンを頼むくらい、いいじゃない」
「ごめん、陽色。僕の何がお前を怒らせたのかわからないけど。お前が怒ってるなら……」
司は大げさに手を振り、いかにも譲歩してやるといった態度で言った。「この衣装は譲るよ」
そう言うと、彼は高級オーダースーツを放り出し、ソファの隅でひとりいじけ始めた。
涼音は眉をひそめ、俺を冷たい目で一瞥した。
そして迷うことなく小走りで司のもとへ向かい、慰め始めた。
「司、この衣装はあんたの体に合わせて作ったのよ。襟のダイヤだって、私が一つずつ3か月かけて付けたんだから。着ないなんて言わないで」
「そうですよ」
見かねた新人の店員が、2人のそばへ歩み寄った。
「そのスーツは柊社長がご自身でデザインされたんです。型紙を引いてから裁断するまで、半年近くかかっているんですよ。
瀬名様、柊社長がどれほどあなたを大切になさっているか、おわかりでしょう。どうかご機嫌を直してください」
俺は呆気に取られた。
店員は、どうやら俺と司を勘違いしているらしい。
それでも彼女は、涼音の険しい視線に気づかないふりをして、なおも言葉を続けた。
「あちらのお連れ様の衣装をご覧ください。シワだらけの中古品です。タダでも欲しがる人はいないでしょう。それに比べれば、社長が瀬名様に向けるお気持ちこそ本物ですよ」
店員が言い終えた瞬間、店内は水を打ったように静まり返った。
不穏な空気を察した店員は、諭すように俺の肩を軽く叩いた。
「怒らないでくださいね。私、ご友人を慰めるために本当のことを言っただけですから。新郎が不機嫌だと場が重くなりますし、グルームズマンとして少し我慢していただけますよね?」
俺は苦笑した。
「でも、新郎は俺なんですけど」
店員の顔がこわばった。
大変な失言をしてしまったと悟った彼女は、恐る恐る涼音の顔を窺った。
涼音は苛立たしげに手を振り、店員を下がらせた。
「新人の言うことなんて気にしないで。あなたのスーツも私が選んだの。シワじゃなくて、そういうデザインなのよ」
俺は答えず、スマホに目を落とし、先生へ追ってメッセージを送った。
【先生、最短なら明日の夜の便に乗れます。そちらへ行ってもいいですか?】
「私が話してるの、聞こえてる?」
涼音はついに痺れを切らしたらしい。彼女は俺のスマホをひったくり、ソファの隅へ冷たく放り投げた。
「陽色、もう少し大人になれないの?すぐにそうやって無視するんだから。そんなことで、まともな夫になれると思ってるの?」
その冷たい顔を見て、俺は思わず鼻で笑ってしまった。
俺が無視しているだと?
喧嘩をするたびに連絡を絶つのは、俺ではなく涼音のほうじゃないか。
メッセージを送っても返事はなく、電話にも出ない。
何日かして家に戻ってくると、何事もなかったかのように「今日のご飯、何?」と聞いてくるのだ。
「俺が夫として不合格なら、司に代わってもらえばいい」
そう言って背を向けた俺の前に、司が先回りして立ちはだかった。
彼は眉を寄せ、目尻を赤くして、いかにも傷ついたような顔を作っている。
「陽色、本当に誤解してるよ。
僕と涼音は何もない。あの店員が勝手に言っただけだ。オーダースーツは、お前の衣装のほうだよ」
俺は司を頭の先からつま先まで眺めた。
エルメスのネックレス、ルイ・ヴィトンのショルダーバッグ、限定モデルのスニーカー。
手取り15万円のインターンに買えるような代物ではない。
何気なく涼音を見ると、司を庇うような愛おしげな表情で、彼を見つめていた。
その瞬間、心臓を強く鷲掴みにされたような痛みが走った。
7年付き合って、彼女が俺にくれた一番高価なものは、980円の安物のひげそりだった。
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