色褪せた愛よ、さようなら第1話
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千早名月(ちはや なつき)は、誰もが羨む完璧な結婚生活を送っていた。骨の髄まで愛してくれる完璧な夫とともに。
しかし妊娠が判明したその日、彼女は衝撃の真実を知った――最も信頼していた夫が、実は2年間も浮気を続けていたことを。
しかもその浮気相手は、大学時代に彼女を執拗にいじめていた吉塚青(よしづか あおい)であり、二人の間にはすでに双子の子どもまで生まれていた。
あの愛人は繰り返し挑発を仕掛け、夫もまた、愛人と密会するために幾度となく彼女を欺いてきた。
裏切られた約束に復讐するため、名月は躊躇なく中絶を選び、さらに自身の死を偽装する事故を企てた。
そして去る間際、流産したときの診断書と、愛人からの挑発の証拠を贈り物として夫に託し、「数日後に開けて」とだけ言い残した……
* * *
「プライベートジェットでの墜落事故を偽装してほしいの。笹原嘉行(ささばら よしゆき)と綺麗に別れたいから」
そう頼んできた千早名月(ちはや なつき)の言葉に、親友の柳橋園子(やなぎばし そのこ)は思わず顎が外れそうになった。幻聴かとさえ思った。
まるで、あの二人が結婚すると聞かされたときのように。
貧しい田舎から出てきた女の子と、Z市の名門・笹原家の御曹司。まるで住む世界が違うふたりが、誰もが予想しなかった形で結ばれたのだ。
世間は騒ぎ立てた。嘉行がただの遊びで付き合っているとか、叶わぬ恋の代わりに選ばれた「影武者」にすぎないとか、はたまた誰かと賭けをして結婚したのだとか。
だが、結婚して三年。嘉行はすべての疑念を行動で打ち消してきた。彼が結婚したのは、ただひとえに名月を愛していたから――それだけだった。
しかも、狂おしいほどに。
出会った瞬間、彼は名月に一目惚れし、激しくアプローチを開始した。
プレゼントを惜しみなく贈るだけではなく、「千早名月」の名義で数千億を慈善団体に寄付し、世界各地に「名月小学校」を設立した。
彼の願いはただ一つ。世界中の誰もが名月の名を知り、彼女が困ったときには必ず誰かが手を差し伸べてくれるように、と。
彼女と過ごす時間を少しでも増やすため、名月のアルバイトにも付き添った。飲食業、チラシ配り、宅配の仕分け作業……
生まれてこの嘉行、自分の服すら洗ったことのない御曹司が、歯を食いしばって二年もの間、彼女と一緒に汗を流した。
バイオリンを奏でていた繊細な指は、今では荒れてしまった。
その誠意がようやく名月の心を動かしたのだが、二人の家柄の差はあまりにも大きく、笹原家はふたりの交際を断固拒絶した。
彼は両親の同意を得るため、十六度も家族からの制裁を受け、鞭で打たれて血まみれになった。今でも背中には傷跡が残っている。
それでも彼は諦めなかった。ついにはすべての財産と跡継ぎの地位を放棄し、一から起業したのだ。誰にも口を出させないために。
周囲の友人たちは「狂った」と笑った。数十代かけても使いきれない財産を手放してまで、たった一人の女性に尽くすなんて。
家族も手を焼き、ついには二人の結婚を認めるしかなかった。
結婚後、彼は周囲のスタッフをすべて男性に入れ替えた。
名月が何も要求していないにもかかわらず、行動予定を細かく報告し、居場所を確認できるようGPSまで装備した。
ネット上では「神のような愛」と称賛され、純愛を信じる者たちの象徴として彼らのカップル人気は沸騰、数多の芸能人をも凌ぐ勢いだった。
だが――
名月以外、誰も知らなかった。
この完璧な男が、密かに別の女性と双子をもうけ、外で別の家庭を築いていたことを。
その事実を知った日、名月は血を吐いて気を失った。
この知らせを聞いた嘉行は、数百億の取引を即座にキャンセルし、すぐに帰国した。昼夜問わず彼女のそばに付き添った。
名月が目を覚ましたとき、彼はベッドの傍らで点滴チューブを握って温めながら、心配そうに彼女を見守っていた。
「目が覚めた?本当に……怖かったんだ」
彼は顔を彼女の手にすり寄せ、涙をこぼしそうだった。
過去、銃口を突きつけられても眉一つ動かさなかった男が、名月の吐血に膝を崩したという。
彼の目に宿る焦りと心配――それが演技でないことは、誰よりも名月自身が知っていた。
この人は、本当に自分を愛している。
けれど、同じその目で吉塚青のことも見つめたのだろうか?
あの甘い言葉を、彼女にも囁いたのだろうか?
吉塚青(よしづか あおい)。彼の浮気相手であり、幼なじみ。
嘉行が名月を追いかけ始めたと知った当時、青は名月に執拗な嫌がらせをした。バイト先で難癖をつけ、仕事を潰し、果てはチンピラをけしかけて辱めようとまでした。
だが、それを止めたのも嘉行だった。告白しに来た彼がその場に居合わせたのだ。
彼は吉塚家との縁など一切気にせず、そのまま吉塚家を破産に追い込み、母に止められなければ命さえ奪っていただろう。
だからこそ、あの醜い動画と親子鑑定書を目にするまでは、名月は彼の裏切りを信じることができなかった。
もう、子どもは一歳だというのに。
名月は目を閉じて顔をそらし、涙が頬をつたって枕を濡らした。
嘉行はその涙に気づかず、「さっき先生が言ってたよ。君、妊娠してる。二ヶ月目だって!」と嬉しそうに声を弾ませた。
「五日後は俺たちの結婚記念日だし、赤ちゃんもできた。まさにめでたいことが重なるんだよ!」
その瞬間、名月の目が見開かれた。
幼い頃、父親に氷河に突き落とされて凍傷を負い、医者には「妊娠は難しい」と何度も言われてきた。
それを知っている笹原家の両親は、彼女に冷たい態度を取った。
彼女は我慢してきた。夫の両親だから。
でも、嘉行は違った。
「名月は俺の大切な人だ。彼女が一緒にいてくれるだけで、俺はもう幸せなんだ。子どもができないってことで、彼女に冷たくするなら、俺は親子の縁を切る」
小さな命が宿る腹に手を当てながら、名月はこらえていた感情を押し止められず、嗚咽を漏らした。
嘉行は彼女を優しく抱きしめ、「誰が君を泣かせたの?俺が懲らしめてやるぞ」と囁いた。
けれど、その彼の体からは、知らない香水の匂いと、微かに乳製品の甘い匂いが混ざっていた。
名月は激しく彼を突き飛ばし、ベッドの端に倒れ込むようにして嘔吐した。
嘉行はそれを妊娠の悪阻だと思い、反射的に両手で彼女の口元を受け止めようとした。
潔癖症のはずなのに、彼は自分の服が汚れることなど一切気にしていなかった。
その姿に、名月は言葉を失った。
彼は本当に潔癖なのに、自分のためならここまでできる。
彼女の服も靴も、すべて彼が手洗いしていた――三年の間、彼はずっと名月に誠意を注ぎ続けた。名月もまた、本気で彼を愛していた。
もう彼なしでは生きられない。
そう思った矢先、嘉行はメッセージを受け取ると「会社に呼ばれた」と言って出て行った。
その三十分後、青から写真が届いた。
写真には、双子の赤ん坊を抱き、彼らの額に優しくキスをする嘉行の姿が写っていた。
その一枚が、彼女の最後の幻想をすべて打ち砕いた。
病院を出た名月は、園子の元を訪れた。
「飛行機事故を偽装して。あの人の手を振り切るためには、それしかない」と、園子に頼んだ。
彼の性格を、一番よく知っているのは彼女だった。
嘉行は、絶対に離婚には応じない。彼女を手放すくらいなら、狂ってしまうような男なのだから。
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