航空工学者の私は、この家ではいらない子だった第1話
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私の名前は、高橋千紗(たかはし ちさ)。
祖母が亡くなったあと、私は両親に引き取られ、田舎から天城市へ引っ越した。
そこで初めて、一歳年下の妹・高橋結衣(たかはし ゆい)がいることを知った。
母の高橋真由美(たかはし まゆみ)は、私の手を握ると優しく笑って言った。
「千紗はお姉ちゃんなんだから、ゆいちゃんには譲ってあげるのよ。ね?」
私は小さくうなずいた。この家では、「お姉ちゃん」でいることが私の役目だと理解した。
その頃から、家族の中で一番後回しになるのは、いつも私だった。
それから数年後、弟の高橋陽斗(たかはし はると)が生まれた。
家族が増えるたび、私の居場所は少しずつ狭くなっていった。
大学二年の夏休み。
私は大学から久しぶりに実家へ帰った。
けれど、家の前で足が止まった。玄関のドアには、いつの間にかスマートロックが取り付けられていた。
そのことを私に知らせてくれた人は、一人もいなかった。
スマホはもう電池が切れていた。誰にも連絡できないまま、私は午後二時から夜十時まで、玄関先で家族の帰りを待ち続けた。
夜十時を過ぎて、ようやく帰ってきたのは、父の高橋恒一(たかはし こういち)、母の真由美、結衣、そして陽斗だった。
四人は大きなスーツケースを引きながら、旅行の思い出話に花を咲かせていた。おそろいのTシャツ姿の四人が、ひどく楽しそうに見えた。
その輪の中に、私の居場所だけはなかった。
玄関先に立ち尽くす私を見つけると、父は驚いたように目を丸くした。しばらく気まずい空気が流れた。
私の指紋を登録しようとして、登録画面を開いた父は、小さく舌打ちした。
「ったく……利用者登録は五人までか。もう追加できないな」
母はまるで大したことではないと言うように肩をすくめた。
「じゃあゲスト登録でいいじゃない。千紗が帰ってくるたびに、登録し直せばいいでしょ」
呆然とする私を見て、陽斗が悪びれもせず笑った。
「結衣姉ちゃんがね、ポチの鼻紋も登録したんだよ。
ほら、ポチも家族でしょ?だから、もういっぱいだったんだ」
犬のポチでさえ、この家では大切な家族だった。それなのに、私は最後まで「ゲスト」のままだった。
この家を出ていく理由としては、それだけで十分だった。
その夜、私は政府の機密プロジェクトへの参加申請書を提出した。
この家で、私の帰りを待つ人はいない。
だから、私はもうこの家に未練はなかった。
* * *
「そうだ、お前、今回は何日くらいいるんだ?」
父はスマホを操作しながら、スマートロックのゲスト登録をしていた。
「ゲスト権限は一週間までしか設定できない。とりあえず一週間だけ登録しておく。期限が切れたら俺に言え」
母は私の手を取り、指紋センサーへ指を当てさせた。
けれど、一度、二度、三度。
右手の指を一本ずつ替えてみても、認証は失敗したままだった。
「なんであんただけ認証できないの?」
母は少し苛立ったように眉をひそめた。
「ゆいちゃんも、はるちゃんも、一回で終わったのに」
母は昔からそうだった。
結衣には「ゆいちゃん」、陽斗には「はるちゃん」。
けれど私だけは、一度も愛称で呼ばれたことがない。
いつだって「千紗」か、「あんた」。それだけの違いなのに、幼い頃の私は、その呼び方の中にある小さな距離を、ずっと感じていた。
「左手でやってみて」
言われるまま親指を当てても、結果は同じだった。
母は私の手をぱっと放すと、うんざりしたようにため息をついた。
「もう、ほんと手がかかるわね。あとは自分でやって」
私は自分の手のひらを見つめた。
十歳になるまで、私は祖母と二人で田舎暮らしをしていた。
体の弱い祖母に代わって、畑を耕し、草を刈り、豚の世話をするのは、いつも私の役目だった。
祖母が亡くなり、この家へ引き取られてからも、それは変わらなかった。
姉だからという理由で、家事はいつも私の役目だった。食器を洗い、テーブルを拭き、床を磨く。毎日のように洗剤や水へ手を浸し続けた。
指紋が擦り減ったのか。それとも、手にできたタコのせいで認証できないのか。
今となっては、もう私にも分からなかった。
「ぼーっとするな」
父が急かすように言った。
「認証できなかったら、いちいち開けに来られないからな。あとで締め出されたなんて文句言うなよ」
私はポケットからティッシュを取り出し、手の汗を丁寧に拭った。
そして息を整え、もう一度センサーへ指を強く押し当てた。
ピッ。
電子音が鳴り、スマートロックが無機質な音声で告げた。
「ゲスト登録が完了しました」
それを聞くなり、父はスマホをポケットへしまい、私を見ることもなくリビングへ向かって歩いていった。
リビングでは、四人が旅行のお土産を楽しそうに仕分けしていた。
父の取引先にはお茶。母の職場には名産のお菓子。親戚には飾り物。
スーツケースの半分以上がお土産で埋まっていたが、それでも、私のためのものは一つもなかった。
私はかすれた声で尋ねた。
「……どこへ行ってきたの?」
どうして、私だけ知らなかったんだろう。
けれど、誰一人として答えなかった。
結衣はスマホを手に、母へ体を預けながら楽しそうに笑っていた。
「ママ見て!この家族写真、すごくよく撮れてるでしょ?」
父も画面をのぞき込み、目を細めた。
「ほんとだ。結衣、ポーズ考えるの上手いな」
画面に写っていたのは、四人だけ。それでも、みんなはそれを「家族写真」と呼んで笑い合っていた。
そのとき、陽斗が鼻をしかめた。鼻先を手でぱたぱたとあおぎながら私を見た。
「そういえばさ、千紗姉さん。
さっきから言おうと思ってたんだけど、お風呂入ってきたら?なんか汗くさいよ。自分じゃ気づいてないの?
女の人なのに、僕よりだらしないじゃん」
母もすぐに口を挟んだ。
「ほんとよ。あんた、田舎で覚えた生活習慣を、この家にまで持ち込まないでちょうだい」
七月の焼けつくような暑さの中、冷房もない廊下で、私は八時間以上、家族の帰りを待ち続けていた。
汗は止まらず、髪は頬にも首筋にも張りついていた。それでも、その場を離れることはできなかった。
入れ違いになってしまうのが怖かったから。
でも、帰ってきた四人は、誰一人として私のことを気に留めなかった。
私を見ても、「暑かったでしょう」と声をかける人はいなかった。「お腹空いてない?」と気遣う人もいなかった。
ただ返ってきたのは――「汗くさい」、その一言だけだった。
私は何も言わず、風呂へ向かった。
そのとき、ポケットのスマホが小さく震えた。
画面には、佐伯教授からのメッセージが表示されていた。
【今回の政府機密プロジェクトは特別な条件がある。参加すると生活も大きく変わるから、家族ともよく話し合ってから決めてほしい】
私はすぐに返信した。
【ありがとうございます。家族と相談して決めます】
けれど、それは嘘だった。
私は、誰にも相談するつもりなんてなかった。
この家で最後まで「ゲスト」だった私に、誰かの許可なんて必要なかった。
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