腐れ縁の終着点第3話
この話は約2888字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
全身の血が一瞬にして凍りついた。緊張のあまり、強く握りしめた私の手のひらは、べっとりと汗ばんでいる。
「小寺山社長、それは話をそらしているのですか? 私の言ったことが図星すぎて、言い返せなくなったと?」
私は顔を上げ、あえて食ってかかるような言い方で、彰良の荒唐無稽な疑念を断ち切ろうとした。
彼は明らかに二秒間、黙り込んだ。
その二秒が、私の心臓を果てしなく引き絞った。
「……君の言う通りだ。俺が間違ってた」
彼はふんと鼻で笑った。自嘲するような、どこか物憂げな響きだ。
そう言い残すと、彼は背を向けて立ち去った。
翌日、私たちはいつも通りに仕事をしている。彰良が姿を現しても、私に一切視線を向けることはなく、まるで昨日の出来事など存在しなかったかのようだ。
終業間際、秘書の渡部快人(わたべ かいと)がオフィスから出てきたが、その顔色は芳しくない。
彼は小声でぼやいた。「社長、今度は一体どうされたんだ。急に大学の同級生を調べろだなんて……」
「大学の同級生」という言葉が私の耳に飛び込み、心に津波のような衝撃が押し寄せた。
「渡部さん、社長が探しているのはどなたですか?もしかすると、私も知っている方かもしれません……」
私は声を絞り出すようにして尋ねた。
「ああ、そうだ。君たち二人ともM大出身だったな。桑島絵里(くわしま えり)という女性だ」
彼はさらに好意でプリントアウトした写真を裏返して、私に見せてくれた。
写真の中の少女は、ファンデーションを厚く塗りたくっている。けれど、その下にある青黒いアザは、まるで悪魔の爪のように顔にへばりつき、今にも浮き出てきそうだ。
――彰良が、私を探している!
その事実は棘のように心に突き刺さり、不安はますます募るばかりだ。
そのため、昼時にいつものように彰良にオフィスへ呼び出された時も、私はまだ意識がもうろうとしている。
彼のためにコーヒーを淹れている間、彼の冷ややかな視線に強烈な探究心が混じっているのを感じた。
「稲崎、君もM大だったな。何学部だ?
……君には、どこか見覚えがある」
全身がこわばり、私は必死にコーヒーカップを握りしめた。呼吸さえ震えている。
「……メディア学部です。学生時代に何度かボランティア活動に参加していたので、もしかするとその時に社長とお会いしていたのかもしれません」
「ふうん、そうか」
彼はコーヒーカップを受け取ると、中の液体が波打つ様子に目を落とし、意味ありげに小さく笑った。
そして、唐突に話を切り出した。
「経営学部の桑島絵里を知ってるか?」
「……聞いたことはあるような気がしますが、あまり印象には残っていませんね」
私は無理やり笑みを浮かべて相槌を打った。幸いなことに、彰良は私の投げやりな返答を気にする様子もなく、ただ小さく「そうか」とだけ言った。
私は手元の書類を急いで片付け、オフィスを後にした。
だが、背後の男の視線が私の背中からデスクの上へと移ったことには気づかなかった。
彼はそこに置かれた二枚の写真を手に取り、重ね合わせようとしている。
その日の仕事帰り、長い間ログインしていなかった私のメールアドレスに、不可解なメッセージが届いた。
かつてのゼミの教授からの連絡だ。私が卒論のために収集したフィールドデータを、教授が執筆中の新書で活用したいとのことで、相談したい旨と私の電話番号を教えてほしいという内容だ。
その時、傍らでは医師が美羽の手術前の注意点を説明している。そのため、私はメールの真偽を確かめる余裕もなく、慌てて電話番号を返信し、スマホを閉じて医師の話に集中した。
診察室を出て廊下を通り、美羽の病室へ向かおうとした時。
目の前の光景に、私は呆然と立ち尽くした。
遠くで、美羽が彰良の手を握りながら、こちらに向かって大きく手を振っている。
私の手はドアノブをしっかりと握りしめ、全身は張り詰めた弦のように緊張している。
目を閉じ、深く息を吸い込み、足早に彼らへと近づいた。
美羽は頭をのけぞらせて何かを話している。その声が次第にはっきりと聞こえてきた。
「私、痛いのなんて怖くないよ。ママみたいに強くなるんだもん。ママも、前に顔の大きな怪物と戦って勝ったんでしょ? だから美羽も、体の中の悪魔をやっつけるよ」
子どものたどたどしい言葉を、彰良は理解できなかったのか、きょとんとした表情で何かを問いかけている。
私は冷や汗が吹き出し、慌てて美羽の言葉を遮った。
「美羽!」
通りかかった看護師が私に声をかけ、微笑みかけた。
「稲崎さん、美羽ちゃんは本当にお父さんにそっくりですね。瓜二つです」
「違います。この子の父親は、ずっと前に亡くなりました」
私のこの時の動揺を知る者は誰もいない。激しい鼓動が鼓膜を破らんばかりに響き、出す声はひどく枯れている。
看護師は気まずそうに通り過ぎていった。
彰良は私に向かって軽く頷いたが、その眼差しは淡々としている。看護師の言葉を気に留めている様子はない。
私は胸をなでおろし、美羽の手を引いて彰良にお礼を言った。
美羽の手術まで、あと二日。
彰良にどうやって休暇を願い出るべきか葛藤している私のもとに、秘書の快人がひどく憂鬱そうな顔をしてオフィスから出てきた。
目が合うと、彼は何か言いたげにためらいながら、ようやく口を開いた。
「稲崎さん、正直に答えてくれ。君の出身大学は本当はどこなんだ?学歴詐称はまずいんだ」
私の手は震え、額から冷や汗が一気に流れ落ちた。
そして精一杯、困惑したふりをしながら笑みを浮かべた。それしか対応の方法がわからない。
「渡部さん、どういう意味ですか?私はM大の卒業生ですよ」
「社長に命じられて、君のことを調べた。M大のメディア学部に、稲崎舞華という学生は存在しなかった」
頭の中で何かが弾けた。その瞬間、私の思考は真っ白になり、何も考えられなくなった。
「……後で社長にどう説明するか、考えておきなさい」
彼は忠告を残した。
私はその場に立ち尽くし、動けない。
一分ほど経って、ようやく詰まっていた思考が動き出した。
私は最速で退職願を作成し、デスクの荷物をまとめると、そのまま彰良のオフィスへ突き進んだ。
「申し訳ございません、社長。認めます、私はM大卒ではありません。学歴を偽り、あなたを騙しておりました。
美羽は数日後に手術を控えています。この仕事はもう続けられませんし、ここに残る理由もありません。
この一ヶ月間、お世話になりました。退職願をここに置かせていただきます」
――これ以上、彰良に調べさせるわけにはいかない。
さもなければ、彼は気づいてしまうだろう。稲崎舞華が、五年前には桑島絵里という名前だったことに。
私は歯を食いしばり、俯いたまま前へ進み、退職願を彼のデスクに叩きつけてすぐに逃げ出そうとした。
けれど、大きな手が私の手首を強く掴んだ。
顔を上げると、そこには底知れぬ嵐を宿した彰良の黒い瞳があった。
彼は一文字一文字を噛み締めるように言った。
それは、あまりにも確信に満ちた断定的な口調だ。
その言葉は、私を最も振り返りたくない忌まわしい過去へと引き戻した。
「絵里……いつまで俺をもてあそべば気が済むんだ?」
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