秋風に消えた想い第1話
この話は約2983字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。
「霞さんの病気は、とっくに手術で治せたはずなのに、どうして治せないなんて嘘をついたんだ?
霞さんはとっくに普通の人と同じ生活ができたはずなのに。お前は彼女の苦しみを長引かせたんだぞ。心不全の患者が毎日どれだけ苦しんでいるか分かってるのか?」
しかし、「生涯愛するのは霞だけ」そう公言していた男は、悪びれる様子もなく答える。
「夏美が我儘なんだから、仕方ないだろ?それに、夏美は俺が他の人に触られるのを嫌がるし、自分のものだって印までつけるんだ。そんなんじゃ、霞の病気が治ったら、隠し通せなくなる」
新井要(あらい かなめ)の言葉は、鋭いナイフとなって新井霞(あらい かすみ)の心を突き刺した。
街の誰もが、要は「色欲とは無縁な男」だと思っていた。
なぜなら結婚してから5年、要は霞に指一本触れていなかったから。それに、霞の生まれつきの病気を気遣って、負担をかけたくないからだと言っていて、霞自身でさえその深い愛情に涙したこともあったのに。
しかし、その「色欲が無い」というのが、自分に対してだけのものだったなんて。
こんな男、もういらない。
* * *
「6億円賭けるわ。私と要が離婚することに」
新井霞(あらい かすみ)が静かに賭け金を置くと、そばにいたカジノ責任者は冷や汗を流した。
これは、令嬢たちが嫉妬まじりに暇つぶしで仕掛けた戯れにすぎなかったのに、まさかそのせいでこんな大物を怒らせてしまうとは、夢にも思わなかったのだ。
新井要(あらい かなめ)が霞を骨の髄まで愛していて、霞のためなら命まで捨てかねないほどだということは、誰もが知っている。
以前、霞が身をかがめたときに胸元を覗こうとした男がいた。その男は数日も経たずに交通事故に遭い、二度と光を見ることはなかったという。
また、酒に酔ったふりをして彼女の腰に手を回した男もいた。翌日、その男の両手は勤め先の会社のドアに吊るされていたらしい。
霞は孤児で、先天性の心臓病を抱えていたから、子どもも産めないし、激しい運動もできない。ましてや、要に男としての喜びを与えてあげることだってできなかった。
それでも、要は霞をこれでもかというほど溺愛していた。
だから霞の体を気遣い、要は決して関係を持とうとはしなかった。いつもキスやハグだけで終わらせて、自分は冷たいシャワーを何度も浴びていたそうだ。
そんな要を見かねた親友が気を利かせて女をあてがったが、要はその女を布団ごと部屋から叩き出したという。
さらには、親戚たちが子供を産むようどんなに必死に説得しても、彼の決意は変わらず、こう言い切ったのだ。
「この生涯で俺が愛するのは霞だけだ。これ以上、彼女を諦めろと強要するなら、お前達の前で死んでやる」と。
また、霞は表舞台に立つことをあまり好まなかったので、要はわざわざ霞とよく似た替え玉を用意し、面倒な場にはその女を代わりに行かせていた。
……
こんな幸せが永遠に続くと思っていた。しかし、ある事件が起きた。
1年前、薬を盛られた要は替え玉の女を霞だと思い込んでしまい、関係を持ってしまったのだ。
正気に戻った要は、霞の前で額を床に擦り付けた。
さらには、ナイフで自らの胸に霞の名前を刻み、許しを求めたのだった。
「霞、信じてくれ。あの時は薬のせいで、あの女をお前だと思い込んでしまったんだ。
俺が愛しているのはお前だけだ。あの女はもう遠くに行かせる。二度と俺たちの前に現れないようにするから」
霞は要の言葉を信じて許した。
要に満足な夜の営みをしてあげられないのは、自分のせいだという負い目もあったから。
しかし、次第に……
霞は、何かがおかしいと感じ始めた。
要は自分といても、誰かからのラインを待っているかのように、常にスマホを気にするようになった。
自分の誕生日の時、要は海外出張だと言っていたのに、スマホの位置情報を見てみると、彼はすぐ近くのホテルにいたのだ。
また、霞が体調を崩して電話したときも、要の態度はそっけなかった。
「霞、まだ会議中なんだ。悪いけど、一人でなんとかしてくれ」
霞が不満を口にしても、要はいつもこう言った。
「親戚連中はお前のことを快く思っていない。だから俺がもっと頑張って、あいつらを黙らせないといけないんだ」
そんなある日、霞は発作を起こした。50回以上電話をかけたのに繋がらず、要が入院先に見舞いに来たのは、結局4日も経ってからだった。
要の鎖骨には、生々しいキスマークがついていた。
そのとき霞は初めて知った。要が橋本夏美(はしもと なつみ)とずっと関係を続けていたことを。
退院したその足で、霞は要の会社へ向かった。すると偶然、オフィスで要が親友と口論しているのを目にする。
「霞さんの病気は、とっくに手術で治せたはずなのに、どうして治せないなんて嘘をついたんだ?
霞さんはとっくに普通の人と同じ生活ができたはずなのに。お前は彼女の苦しみを長引かせたんだぞ。心不全の患者が毎日どれだけ苦しんでいるか分かってるのか?」
その言葉を聞いた霞は、まるで氷の穴に突き落とされたような衝撃を受けた。
世界で自分を一番愛してるといつも言ってくれていた人が、自分が病気で苦しむ姿を、ただ黙って見ていただけだったなんて。霞は信じられなかった。
……
「霞さんを一番愛しているんじゃなかったのか?なんで彼女にこんな酷いことをするんだよ?」
「夏美がすごく我儘なんだから仕方ないだろ?」
困っているような表情を浮かべている要だったが、その声はどこか楽しそうだった。
「俺が他の人に触られるのを嫌がるし、自分のものだって印までつけるんだ。そんなんじゃ、霞の病気が治ったら、隠し通せなくなるだろ?
それにこの間、俺が霞を抱きしめているところを夏美に見られたんだ。そしたら泣き喚いて大変でさ。惑星を99個も買ってあげて、やっと機嫌が直ったんだ」
「惑星を99個?一体いくらかかったんだよ?昔、お前が霞さんにプロポーズした時は、たった1個だったじゃないか。
一生、霞さんだけだって言ってたのに、なんであの女にそんなに尽くすんだよ?まさか、本気で好きになったんじゃないだろうな?」
その問いに、要は答えなかった。
長い沈黙の後、要は困ったようにため息をつく。「俺だって、好きでこうなったわけじゃない。
最初はただ、夏美の体に興味があっただけだった。でも、いつの間にか……」
霞は胸を押さえ、唇をきつく噛みしめた。
「気づいたら、もう夏美なしじゃいられなくなっていた。起きてるときも、夢の中でも、あの子のことばかり考えてる……」
そして要は、一度息を深く吸った。
「霞と一緒にいるときでさえ、心の中は夏美のことでいっぱいなんだ」
「じゃあ、心変わりしたってことなのか?本当に夏美って女を愛してるなら、早く霞さんに本当のことを言ってやれよ。下手に隠してると、二人とも傷つけることになるぞ。
結婚式の時、霞さんは言ってたじゃないか。『一途な愛だけが欲しい』って。もしこのことがバレたら、霞さんは絶対にお前と別れるぞ。その時になって後悔しても遅いからな!」
「馬鹿なこと言うな。俺は霞のことも愛してるんだ。お前達が黙っていれば、霞にばれる事はないんだからさ」
要は有無を言わさぬ冷たい声で続ける。
「それに霞は体が弱いし、俺が長年甘やかしてきたから、もう一人ではまともに生活できない。身寄りのないあいつが、俺から離れていけるわけないだろ?」
縦書き表示中:本文は右から左へスクロールします(← → キーでも移動できます)