私が死んだ日、夫は初恋を手にかけた第3話
この話は約3645字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
幼馴染の竹内透(たけうち とおる)だった。
少し考えてみれば分かることだ。ノックしたのは、和哉のはずがない。
この家で7年も暮らしていたのだ、当然鍵を持っている。
それに――ずっと想い続けていた愛莉が帰国したのだ。そんな和哉が、私に未練を残して帰ってくるわけがない。
また私は、自分に都合のいい夢を見ていただけだった。
私は、ドアの向こうの透を無視した。
すると、スマホが鳴り出す。透からの電話だった。
そういえば、さっきマナーモードにするのを忘れていた。
電話が鳴ったことで、私が中にいると分かったのだろう。
ドンドン――
ドアを叩く音が、さらに激しくなる。
「愛!いい加減開けろ!開けないなら、鍵を壊すぞ!」
私は思わず呆れた。
――いかにも透がやりそうなことだ。
昔から短気で、考えるより先に身体が動く。
そして、身体だけは無駄に頑丈で、頭の中は単純。
学生の頃から、いわゆる学校の番長みたいな存在だった。
短気で無鉄砲。
そんな幼なじみなのだ。
ドアが丈夫じゃなければ、とっくに蹴破っているかもしれない。
仕方なく、私は重い身体を起こして玄関へ向かった。
鍵を開けた途端、透が勢いよく中へ飛び込んできた。その大きな手が私の肩を掴み、目には、怒りの炎が燃えている。
「和哉がSNSに載せてた写真だけど、あれはどういうことだ?」
私は力なく笑った。
「……写真って?」
「は?」透が目を見開く。「和哉と岩崎愛莉が、恋人の聖地って言われてるあの山頂でキスしてる写真だ。見てないのか?」
私は首を横に振った。声が、自分でも驚くほど弱々しかった。
「……見てない。和哉に、とっくにブロックされてると思うから」
透は一瞬、言葉を失った。まるで信じられないという顔で、私のスマホをひったくる。
和哉のプロフィールを開くと、そこに「投稿がありません」とだけ表示された。
透の顔が、一気に険しくなる。
怒りに任せて、私のスマホを床へ叩きつけた。
画面が一瞬で蜘蛛の巣のようにひび割れる。
私は、そんな透をぼんやりと見つめていた。もう、怒る気力すら残っていなかった。
透は、呆れ果てたように私を見た。
「この1ヶ月、和哉は毎日SNSに惚気話をのせてたんだぞ。俺はてっきり、お前たちが幸せにやってるんだと思ってた。まさか全部、あの女に見せるためだったとはな!」
透は私を睨みつける。「和哉が浮気してるっていうのに、お前、それでも黙って耐えるのか?」
私は力なく頷いた。「……もう、どうでもいいよ。私たち、離婚するから」
その言葉を聞いて、透はようやくテーブルの上に置かれた離婚協議書に気づいた。
大股で歩み寄り、それを手に取る。
ざっと目を通した途端、透の顔色が変わった。
「愛、お前……本気でどうかしてるぞ!」
離婚協議書を握りしめたまま、透は声を荒らげる。
「和哉のために家族とまで揉めて、勘当同然になって、金も援助も全部なくなっただろ?それでも自分で這い上がって、空海市でも指折りのギャラリーを作った。それだけじゃない。お前は自分の人脈を全部使って、あいつを今の地位まで押し上げたんだぞ!お前がいなかったら、あんなやつが何をもって『注目の若手画家』なんて呼ばれてたんだよ!
それなのに、あいつはよくもまあ、絵を1枚だけ残して『償い』だなんて言えたな。お前の力がなきゃ、あいつの絵なんて金になるどころか、ただの紙切れになってたんだぞ!」
そう言って、和哉が残していった『償い』を手に取ると、床へ放り投げ、そのまま靴で踏みつけた。
「透、やめて!」私は思わず声を上げた。
透は信じられないという顔で私を見る。「何を言ってるんだ?あいつが何をしたのか、まだ分からないのか?浮気して、お前を傷つけたんだぞ!俺はお前のために怒ってるのに、『やめろ』って言うのか?
愛、お前、昔から何をやらせても一番だった。なのに……和哉と付き合い始めてから、誇りも、尊厳も全部捨てたのか?」
私は、もう言い返す気力もなかった。「……透。もう帰って。今は、一人にしてほしい」
透はそれでも納得できないのか、やがて吐き捨てるように言う。
「あいつ、お前を利用するだけ利用して、金も名声も手に入れたと思えば、何食わぬ顔で出ていったんだぞ。それでも……何もしないのか?」
私は答えなかった。
和哉の冷たい態度と、愛莉に向ける惜しみない優しさ。その差を思い浮かべた瞬間、耳の奥で何かがざわざわと鳴った。
自分の声さえ、どこか遠くから聞こえてくるようだ。
「……和哉が好きなのは、最初から私じゃなかった。そんな彼を無理やり引き止めても、意味がない。もう、好きにすればいい」
透は複雑そうな目で、しばらく私を見つめていた。そして、諦めたように肩を落とす。
「……恋愛体質の人って、ほんとどうしようもないな。もういい。俺は知らん」
そう言い残して、透は部屋を出ていった。
透が帰ったあと、私は床に落ちた『償い』を拾い上げた。
ティッシュを手に取り、絵についてしまった靴跡を、丁寧に拭っていく。
画面に描かれているのは、湖畔に立つ1人の少女。
白いワンピースを着ている彼女は、どこか冷たく、孤独な雰囲気をまといながら、それでも決して折れない芯の強さが滲んでいる。
――これが、本当の私だ。
男の庇護欲を掻き立てるような、儚い存在などではない。
目を閉じる。部屋の中に残る、和哉の気配を探す。
けれど、感じれば感じるほど、胸が締めつけられた。まるで巨大な岩に心臓ごと押し潰されるようで、息ができない。
10年かけて愛してきた人が、結局は別の女性を選んで、私のもとを去っていった。
腹の奥が、突然きりきりと痛み始めた。けれど、スマホを手に取る力さえ残っておらず、救急車を呼ぶことすらできなかった。
視界がゆっくりと暗くなっていく。
そのまま、私は意識を失った。
……
次に目を開けたとき、私は病院のベッドにいた。傍らにいたのは、入社してまだ1年あまりの新人アシスタント――田中沙耶香(たなか さやか)だった。
彼女の目は真っ赤に腫れている。泣いていたのだろう。
私が目を覚ましたことに気づくと、沙耶香は慌てて水を口元へ運んでくれた。
「……どうして、ここにいるの?」
私は掠れた声で尋ねた。
私は自宅で一人、倒れたはずだった。誰かに助けを求めた覚えもない。
今日は休みを取ってある。それなのに、どうして沙耶香が私の倒れたことを知っているのだろう。
「私……その、ネットでいろいろ噂になってるのを見て、心配になって……それで、マンションまで様子を見に行ったんです。でも、何度ノックしても愛さんが出てこないから……それで、警察に連絡しました」
「……そうだったの」
ようやく事情が分かった。
たった1年ほどしか一緒に働いていない沙耶香でさえ、私のことを心配してくれた。
それなのに――
10年間、愛し続けた和哉は、私が生きているかどうかさえ気に留めず、少しの迷いもなく私を捨てていった。
私は、力なく笑った。
……本当に、馬鹿だった。
沙耶香から事情を聞くまで、私はまだどこかで、子どもじみた期待を捨てきれずにいた。
もしかしたら――和哉が沙耶香に連絡して、私の様子を見に行くよう頼んだのではないか。
けれど、それはただの思い込みだった。
水を飲み終えると、沙耶香はコップを置き、頬を膨らませた。
「愛さん、和哉さん、本当にひどすぎます!あんな人、絶対に許しちゃ駄目です!」
私は、沙耶香が何を言いたいのか分かっていた。
和哉が今の地位を築けたのは、私が持っていた人脈や仕事上の繋がりがあったからだ。この業界での私の立場は、若手画家として注目され始めたばかりの和哉より、ずっと安定している。
和哉が愛莉との写真をSNSにあげたのは、私に離婚を切り出した後だった。
妻と円満に別れ、その後、かつての恋人と再会し、再び結ばれた――そんな筋書きにしたかったのだろう。
けれど、もし私が和哉の浮気を公にすれば、話が変わる。
既婚者でありながら愛莉と関係を持っていた事実を明かせば、彼の評判は一気に地に落ちる。これまで築いてきた名声だって、失うことになるだろう。
それでも、私は首を横に振った。
10年間、好きだった人だ。こんな醜い終わり方にはしたくない。
それに――
和哉は、愛莉を愛しているということを、隠したわけではない。
ただ、私が勝手に期待していただけ。
私が報復するつもりがないと分かると、沙耶香は悔しそうに唇を噛んだ。
けれど、すぐに気持ちを切り替えるように言った。
「先生は、もう大丈夫だって。ちょっと強いショックを受けただけだから、しばらく休めば回復するって言ってました。
それから、ずっと何も食べてなかったから低血糖もあったみたいです。私、何か食べるもの買ってきますね」
そう言って、沙耶香は立ち上がった。
一人になると、どうにも落ち着かなかった。ベッドに横になっているのも嫌になり、私は少し歩こうと病室を出た。
そして――
廊下へ出たところで、思いがけない人の姿が目に入った。
和哉と、彼に身体を支えられながら歩く愛莉。
2人は連れ立って、診察室へ向かっていた。
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