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私が死んだ日、夫は初恋を手にかけた第1話

この話は約3257字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。

私は、立花和哉(たちばな かずや)を10年間、愛してきた。

彼はいつも私の目元に優しく口づけをして、愛おしそうに私の名前を呼ぶ。

「愛ちゃん、愛ちゃん」と。

彼が描いた絵には、いつも決まって同じ言葉が添えられていた。

――「最愛の愛ちゃんへ」。

周囲のa人たちは、私たちを仲睦まじい夫婦だと思い、羨んだ。

けれど、私には分かっていた。

和哉が本当に愛しているのは私ではなく、別の女性だということを。

岩崎愛莉(いわさき あいり)。

和哉の幼なじみで、かつて彼を裏切って名声と将来を選んだ、彼の忘れられない女性。

「愛ちゃん」というのは、愛莉が昔から呼ばれていた愛称だった。

和哉が私と結婚したのは、私の目が愛莉に似ていたから。そして、名前に「愛(あい)」という字が入っていたから。

結婚7周年の記念日。

私は、その日に和哉へ伝えるつもりだった。

――子どもができた、と。

けれど、私が口を開くより先に、和哉は離婚届と離婚協議書をテーブルの上へ置いた。

「離婚しよう……彼女が帰ってきたんだ」

* * *

オークションで、和哉の『最愛』シリーズの最終作――『再会』に、なんと2億4千万という破格の値がついた。

淡い紫を基調にした油彩画だった。

満天の星空の下、白いドレスをまとった少女が静かに佇んでいる。その背後には、夢のようなバイオレットの花畑が広がっている。

少女の瞳は星のように澄み、どこまでも純粋で、見る者の胸を掴むような儚さを湛えていた。

和哉は繊細な筆致とロマンチックな色彩で、夢のような美しい光景を描き出している。

絵の中の少女は、生命力に満ち、息を呑むほど美しく、誰もが心の奥に思い描く「忘れられないあの人」そのもの。

絵を見た人たちは、口々に言った。

――この絵のモデルは、きっと愛さんだと。

そして、和哉は絵の隅に、愛情のこもった言葉を残していた。

――「最愛の愛ちゃんへ」。

落札を告げるハンマーが鳴り響く。

『最愛シリーズ・再会』を競り落としたのは、外国人のコレクターだった。

インタビューに応じた彼は、カメラに向かって、祝福の言葉を口にした。

「立花さんと奥さんの愛にとても感動しました。私は『最愛』シリーズが大好きです。2人がいつまでも仲良く、ずっと幸せでありますように!」

会場は、大きな拍手に包まれた。

画面に映る、どこか憂いを帯びた和哉は、真っ白なシャツに身を包み、ほんの少し口元を緩めている。向けられる祝福も、称賛も、素直に受け止めていた。

オークションのライブ配信には、私たちの愛を称えるコメントが次々と流れていく。

【和哉さんが注目されるようになったのって、愛さんに支えてもらえたからなんだって!愛さん、まさに「夫を成功させた妻」って感じ!】

【大学卒業後、和哉さんは就職せずにずっと創作に専念してたんだよね。愛さんが働いて生活を支えてたからこそ、今の和哉さんがあるんだと思う!】

【下手な恋愛小説より感動するんだけど!こんな夫婦、現実にいるんだ】

【和哉さん、人気俳優と並んでも顔が全然負けてない。愛さんも綺麗だし、仕事ができるし、この2人は推すしかない!】

スマホには、途切れることなくメッセージが届いていた。

【愛さん、おめでとう!長年の苦労が報われたね!】

【愛さんのこと、嫉妬しちゃうくらい羨ましいよ!】

【愛、今日は結婚記念日でしょ?和哉さんが絵を出したのって、愛へのサプライズなんじゃないの?ロマンチックすぎる!】

【愛、大学時代に3年も和哉さんを追いかけてたよね?結婚してからもう7年が経ったし、今じゃ2人は、すっかりみんなが憧れる夫婦になったよ。幸せになって本当によかった!】

【愛さん、和哉さんって本当優しい!和哉さんの友達にいい人がいたら、紹介してね!】

私はソファに身を預けたまま、1つ、また1つと届く祝福のメッセージに目を通していた。

そして、そっとお腹に手を添える。口元には、静かな笑みが浮かんでいた。

今日は、私たちの結婚7周年の記念日。

和哉は、私のために描いた『最愛』シリーズの最終作――『再会』を、オークションに出した。

私は手作りのケーキを用意し、テーブルにはキャンドルを灯した。和哉が帰ってきたら、一緒に結婚記念日を祝うつもりだった。

そして今夜こそ、自分の口から伝えたい。

――子どもができた、と。

けれど、和哉は帰ってこなかった。

オークションが終わってから、まるでこの世から消えてしまったかのようで、電話をしても出なかったし、メッセージを送っても既読がつかなかった。

和哉がどこへ行ったのか、誰も知らない。

壁時計の針だけが、カチ、カチ、と無情に時を刻んでいく。

そして、日付が変わった。深夜零時を過ぎても、和哉は帰って来なかった。

胸の奥に灯っていた期待が、少しずつ冷えていく。

結婚7周年の記念日、和哉は私を置き去りにした。

これまでの7年間、和哉はずっと私に冷たかった。けれど、私をモデルに絵を描いているときだけ、その瞳には、燃えるような熱が宿った。

私の目元に口づけて、何度も何度も名前を呼ぶのだ。

「愛ちゃん、愛ちゃん……」と。

低く、甘く、どこか人を惑わせるような声。

私はずっと、それを愛情の証だと思っていた。

和哉はもともと感情を表に出さない人だから、その想いを、何より大切な絵に託しているのだと、思いたかった。

今日のオークションでも、和哉は展示台の前に立ち、自分の作品に込めた想いを、いつもの涼やかで、どこか情熱を秘めた声で語っていた。

けれど――その話を聞いているうちに、私は気づいてしまった。和哉が語る思い出と、私が覚えている思い出が、まるで噛み合っていない。

それでも私は、ずっと自分に言い聞かせてきた。

和哉は芸術家だ。だから、現実の出来事をそのまま描くのではなく、少し美しく、少しロマンチックに脚色しているだけなのだ、と。

そうやって、私は自分を騙し続けてきた。

結婚して7年。和哉が私を抱いたのは、たった一度だけだった。

その日は珍しく機嫌がよく、酒もかなり飲んでいた。私を抱きしめながら、何度も「愛ちゃん、愛してる」と囁いてくれた。

あの夜だけは、普段の彼からは想像もつかないほどの熱を見せた。

けれど、それ以外の日はいつも、和哉はアトリエに閉じこもっていた。

私は、ただ彼が生まれつき淡白な性格なのだと思っていた。

――けれど。

今夜だけは、もう自分を騙すことができなかった。

胸の奥に、嫌な予感が芽生えていた。その予感は時間が経つほど強くなっていく。

妊娠初期の体調不良も重なり、身体から力を根こそぎ奪われたように、ひどくつらかった。

午前2時、私は何度も和哉に電話をかけた。けれど、何度かけても出ない。

返ってくるのは、無機質な電子音声だけだった。

「おかけになった電話は、電源が入っていないため――」

もう、何もする気力が残っていなかった。

疲労に押し流されるようにスマホの電源を切り、私はソファの上で身体を丸めた。涙が、止めどなく頬を伝っていった。

妊娠してからというもの、ひどく眠くなることが増えていた。いつ眠りに落ちたのか、自分でも分からない。

ただ、夜は何度も悪夢を見た。

最後に見た夢だけは、今でもはっきり覚えている。

和哉が帰ってきた。

彼はソファのそばに立ち、眠っている私をしばらく見つめていた。そして、そっと手を伸ばす。

頬にかかった乱れた髪を、指先で払ってくれた。そのまま私に、毛布を掛け直す。

次の瞬間、和哉の腕が私の身体を包み込んだ。

「ごめん」と、何度も謝った。

そして、最後に額へそっと口づけると、彼は、振り返ることなく私のもとを去っていった。

「……!」

私は飛び起きた。

目を開けると、静まり返った部屋にいるのは、私一人だけ。

ただ、テーブルの上に数枚の書類が置かれていた。

――離婚届と離婚協議書。

部屋の中にはまだ、和哉がまとっていたあの松の香りがかすかに残っている。

夢じゃない。和哉は、本当に帰ってきていた。

震える手でスマホの電源を入れ、和哉とのメッセージ画面を確認した。

そこには、確かに彼からのメッセージが届いていた。

【離婚しよう……彼女が帰ってきたんだ】

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