瓦礫に沈んだ命第3話
この話は約1971字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
医療テントの中の空気は、いっそう重苦しく沈み込んでいた。
浩之の顔は真っ赤に火照り、小さな体を丸めたまま、眠りの中でもきつく眉間にしわを寄せている。
額に当てた濡れタオルはすでに三度も取り替えられていたが、高熱が引く気配は一向にない。
私は焦燥に駆られながら彼の上に浮かび、幾度となくその額へ手を伸ばした。かつて数えきれないほど繰り返してきた夜と同じように。
浩之は幼い頃から体が弱く、季節の変わり目になるたび決まって熱を出していた。
意識が朦朧とする彼を前に、私は一晩中眠らず、ぬるま湯で何度もその体を拭いてやったものだ。
熱が下がれば、彼の大好物であるカボチャシチューを作ってやる――それがいつもの約束だった。
それなのに今は、苦しむ彼を、ひび割れた唇を、看護師が突き立てる冷たい注射針を、ただ見守ることしかできない。
抱きしめてあげたい。
冷えた私の手のひらをその額に当て、「ママはどこにも行ってないよ」と伝えてあげたい。
けれど今の私は、触れることも、留まることも叶わない――ただ漂う空気の塊に過ぎなかった。
行人は傍らで様子を見守っていたが、眉間の皺が解けることは一度もない。
彼は浩之が抱え込んでいる、明らかに邪魔そうなリュックを取り上げようとした。少しでも楽に眠らせるためなのだろう。
だが、リュックに手が触れた瞬間――浩之がカッと目を見開いた。
残された力を振り絞り、リュックを胸元へ引き寄せる。
「触っちゃダメ!」かすれた子供の声が、泣き声混じりに響いた。「これ、ママにあげるの!」
行人の手が空中で止まる。
「ママのために、ちゃんと取っておくんだもん!」
浩之の目から大粒の涙が溢れ、リュックの帆布へと吸い込まれていく。
「これ、パパがママにプレゼントしたやつでしょ……ママがこれを受け取ったら、もう喧嘩しないでしょ……?」
宙に漂う私は、心臓など存在しないはずなのに、不意に激しく疼くような錯覚に襲われた。言葉にならない痛みが、一気に胸を満たす。
私の愛しい息子。
まだ三歳だというのに、彼は私たち夫婦の間に生じた巨大な亀裂を修復しようとするほど、敏感に空気を感じ取っていたのだ。
途切れ途切れの言葉を聞いた瞬間、行人の顔色が目に見えて悪くなった。
「何を馬鹿なことを……」
低く唸るように言う。
「知世のやつ、喧嘩のことまで子供に話したのか?こんなことまで……!」
私は行人の前へ飛び込み、その耳元で叫んだ。
「違うわ!子供には一言もそんなこと言ってない!」
けれど、彼には届かない。
行人は浩之の腕から強引にリュックを奪い取ると、ファスナーを引き開け、中身を乱暴に床へぶちまけた。
砕けたビスケットの欠片。
空になった水筒。
そして、一体のテディベア。
そのクマのぬいぐるみに、私は見覚えがあった。
結婚して三度目のバレンタイン。
あの日の朝、私は行人が消し忘れたスマートフォンの画面を見てしまったのだ。
そこには彼と晴子が写っていた。
親密そうに寄り添い、心からの笑顔を浮かべる二人。
写真の下には――
【同僚が撮ってくれた。すごく気に入ってるよ】
さらにその下には、直視できないほど甘い言葉が並んでいた。
そして数日前、私はクローゼットの隅でひとつのジュエリーボックスを見つけていた。
中には、店で何度も眺めながら、結局もったいなくて買えなかった金のネックレス。
私はてっきり、行人からのサプライズだと思い込んでいた。
けれどその夜、彼が私に差し出したのは――ただのテディベアだった。
積み重なっていた虚しさと疑念が、その瞬間、限界を超えた。
黙り込む私を見て、行人はまたいつもの我がままだと思い込んだ。
「気に入らないのか?」
そう問われても、私は答えなかった。
玄関まで歩いていき、そのクマをそのまま廊下のゴミ箱へ投げ捨てた。
あの日、私は行人と激しく口論した。
けれど浩之のために、夫の浮気については一切触れなかった。
耐えさえすれば、浩之に健全な家庭を、望まれた子供時代を与えられると信じていたから。
けれど、浩之はすべてを知っていたのだ。
そして彼なりのやり方で、不器用に、この家を守ろうとしてくれていた。
行人がテディベアをつまみ上げる。
その瞳には苛立ちと、わずかな困惑が混じっていた。
きっと予想外だったのだろう。
私が拾い戻し、あろうことか息子が宝物のように大切にしていたことが。
「こんなもののために泣いてるのか?」
苛立たしげにテディベアを握り潰そうとした、そのとき――ふいに行人の指が止まった。
布地越しに、硬い感触があった。
彼は眉をひそめ、テディベアを裏返すと、背中に隠されたファスナーを開いた。
綿の中から、眩いばかりの金のネックレスが滑り落ち、傷だらけの彼の掌へ収まる。
チェーンの先で揺れるペンダントトップには、「知」の一文字が刻まれたプレート。
医療テントの薄暗い灯りの中で、それはかすかな光を反射していた。
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