父と子は元カノしか愛せない?私が離婚したら、なんで二人とも発狂した?第3話
この話は約3478字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
紗夜は、普段は誰にも懐かない理久が彩の手を取ってその隣に歩み寄るのを、ただ呆然と見つめていた。
まるで庇護を求めるように彩に寄り添う様子は、彼女に対する深い信頼の表れだった。
そんな依存を、理久が紗夜に見せたことは一度もなかった。
その瞬間、彼女の心の奥で何かが音を立てて壊れた気がした。
顔色の悪くなった紗夜を見て、文翔が眉をひそめた。
「何の病気だ」
紗夜はゆっくり視線を彼に向け、その瞳にかすかな揺らぎが走る。
「私と文翔が、理久が病院にいるって使用人から聞いて心配で迎えに来たんですけど......病気なのは深水さんだったんですね」
彩が何気なく口を開き、紗夜に向かって優しげに続けた。
「大したことないといいのですが......私、残って看病しましょうか?」
「大した病気じゃないだろ。世話を焼く必要がない」
文翔は冷淡に言った。
紗夜の持ち上げかけた瞼が再び下がり、その目はますます暗くなる。
本当にどうしようもない、自分。
文翔が、彼女の病気なんかで心を動かすはずもない。
心配なんて、されるわけがない。
「文翔、そんな言い方よくないわ。深水さんはあなたの奥様なのよ?」
彩はそう言うと、真剣な表情で紗夜に向き直った。
「誤解しないでくださいね。文翔はもともと人に気遣いを見せるのが下手なだけです......私が以前病気した時は、彼、自ら看病してくれましたけど」
「......私は、大丈夫」
紗夜はもう、彼女たちの甘い過去など聞きたくなかった。
深く息を吸い込み、なるべく普通の声を保とうとしながら文翔を見た。
「もう遅いから、理久を先に連れて帰って」
理久は明日、長沢家の本邸で個人授業を受ける予定だった。
文翔の母は理久の遅刻を嫌っている。
いや、正確には、紗夜を嫌っているからこそ、理久にも厳しく当たるのだ。
文翔は深い眼差しで彼女を見つめ、薄い唇を一直線に結んでいた。
そのとき、理久が彼のズボンの裾を軽く引っ張りながらあくびをした。
「パパ、ねむい......」
「理久、眠いの?じゃあ、パパとおばさんと一緒におうちに帰ってねんねしようね?」
彩は彼の前でしゃがみ、優しい声で語りかける。
「うん」
理久は小さな手で文翔の指を握った。
「パパ、行こう」
その様子を見て、文翔はようやく紗夜から視線を外した。
紗夜は病室のベッドに身を戻し、背中を向けて彼らを見なかった。
やがてドアの開く音がして、彼女はそっと顔を上げた。
扉のガラス越しに見えたのは――
理久が片手で文翔の手を、もう片手で彩の手を握って歩いている姿だった。
まるで理想的な「家族三人」。
その完璧な光景が胸に痛く刺さった。
三人の姿がだんだんとぼやけていく。
紗夜は無意識のうちに手で顔を拭った。
手はもう濡れていた。
爛上(らんじょう)の夜は冷たい。
紗夜はしくしくと痛む胃を抱え、体を丸めてようやく眠りについた。
翌朝、使用人が運んできたのは薄味のお粥とおかず。
紗夜はほとんど食欲がなく、二口ほど食べてスプーンを置いた。
「奥様、旦那様から『必ず食べ終わるのを見届けろ』と言われてまして......そうしないと治りも遅くなりますし、旦那様も心配してらっしゃいますから」
使用人は困ったように、けれど丁寧に言葉を添えた。
心配?彼が......?
紗夜はかすかに唇を歪めた。
ありえない。
彼が自分を心配するなんて。
けれど、今はそんなことを気にする余裕もなかった。
なぜなら、心が勝手に理久のことばかりを気にしてしまうから。
彩が戻ってきて、まだ一ヶ月も経っていない。
それなのに、理久はすでにあれほど懐いている。
なぜ?
その時、彼女のスマホに通知が届いた。
紗夜は反射的に目を輝かせた。
理久からかと思った。
だが、送り主は彩だった。
添付されていたのは一本の動画。
映像には、文翔がテーブルでタブレットを見ながら財務報告を読んでいる姿。
理久はその隣で、ぶらぶらと足を揺らしながら座っていた。
そして、彩がその隣に座り、手ぬぐいで理久の手を優しく拭っていた。
あまりにも和やかな光景だった。
けれど、紗夜の体はひやりと冷えていく。
「理久、おばさんが作った朝ごはん、おいしい?」
彩が微笑みながら尋ねる。
「おいしい!」
理久は満面の笑みで答えた。
「じゃあ......お母さんの朝ごはんと、おばさんの朝ごはん、どっちが好き?」
理久は間髪入れずに答えた。
「もちろん竹内おばさんの!お母さんはぼくの嫌いなにんじんとか野菜ばっかり食べさせるけど、竹内おばさんはそんなことしないもん。竹内おばさんは世界一!」
紗夜は乾いた笑いをもらした。
理久は未熟児で生まれ、体が弱かった。
だから彼女は息子の成長のために、食事に最大限の気を使い、栄養士の資格まで取って工夫を凝らしてきた。
けれど......
その献身は、息子の記憶の中では「お母さんが嫌いなものばかり食べさせる」原因にすり替わっていた。
まるで、彩と比べられる「欠点」のように。
なんという皮肉。
そして理久は、彩の服の袖を握りながら、きらきらした瞳で言った。
「竹内おばさん、ここに住んで、毎日朝ごはん作ってくれる?」
「ここに......?」
彩は少し戸惑ったような笑顔で、ちらりと文翔に視線を送る。
「そうだよ、そしたらパパとぼく、毎日竹内おばさんに会えるから!」
その言葉に、彩が何かを返そうとする直前で動画は終わった。
紗夜の胸には、大きな石が置かれたような重みがのしかかってくる。
つまり、彩は夫も、息子も奪って、今度は、この家までも......
「ダメ......」
紗夜はしくしく痛む胃を押さえながら、ベッドを抜け出す。
止めなきゃ。
なんとしてでも。
だが、病室の扉を開けた瞬間、彼女は思わず足を止めた。
そこには黒いマスクに黒いキャップを被った人物が立っていた。
紗夜が何かを言う前に、相手は一歩踏み込んできて、素早く彼女の口と鼻を塞いだ。
「......っ!?」
紗夜は目を見開き、もがこうとしたが、意識はすぐに闇へと落ちていった。
――
紗夜が目を覚ましたとき、すでに朝の光が差していた。
だが、そこは病院ではなく、廃工場のような場所だった。
「やっと起きたか」
顔に傷のある男が近づいてきて、鼻で笑う。
「よく寝る女だな。丸一日眠り続けやがって」
丸一日......?
紗夜は反射的に自分の服を見る。
入院着は少し皺があるだけで、乱れた様子はなかった。
「見ればわかるだろ?」
傷の男が鼻で笑った。
「上から『手を出すな』って言われてなきゃ、とっくにバラバラだったぞ?」
上......?
紗夜の目に疑念がよぎる。
だが、突然目の前に突き出された鋭いナイフに思わず体が震えた。
「な、何するの......?」
「緊張すんなよ、ちょっと金が欲しいだけさ」
別の太った男が口を開いた。
「お......お金なんて持っていない」
紗夜は体を丸め、警戒心を全身にみなぎらせる。
父が投獄され、母が重病になって以来、自由になるお金などなかった。
だからこそ、「長沢家の若奥様」という立場だけは必死に守ってきたのだ。
それだけが、文翔から毎月わずかな生活費を受け取れる唯一の手段だった。
けれど、毎月の小切手を受け取るたび、自分がどれだけ惨めな女かを思い知らされる。
その小切手は、文翔が彼女を欲望のはけ口にしたあとの「報酬」に過ぎなかった。
紗夜は目を伏せ、胸の奥に鈍い痛みを感じる。
その金もすでに母の治療費としてまとめて三ヶ月分支払い、もうほとんど残っていない。
「シラを切るな!お前は長沢家の若奥様だろ。長沢家って言やぁ、京浜でもトップの名門じゃねぇか。旦那は金持ってんだろうが!」
傷の男は彼女のスマホを投げ返してきた。
「今すぐ旦那さんに電話しろ!」
紗夜は電話をかけたくなかった。
だって、彼女が一日一夜も姿を消していたのに、長沢家は何の反応も見せなかった。
つまり、文翔は彼女のことなど、最初から探してなどいないのだ。
探さない=気にしていない。
紗夜は唇を噛んだ。
この誘拐犯は、なぜ文翔に電話させようとするのだろう?
「早くしろ!」
傷の男がナイフを振り上げ、恐ろしい形相で怒鳴る。
「......わ、分かりました」
紗夜は震える手で文翔の番号を押した。
電話が繋がったその瞬間、彼女の胸にはわずかな期待がよぎった。
夫婦だった。
愛されなくても、命の危機くらいは気にしてくれるのではないか。
......だが。
「もしもし?」
受話口から聞こえたのは、彩の声だった。
紗夜の動きが止まる。
彩......
傷の男の鋭い視線が彼女を射抜いている。
紗夜は仕方なく口を開いた。
「......文翔は?急用があるの。彼を......」
「文翔を?彼、今はまだ寝てますよ」
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