潮騒に消えた愛の言葉第3話
この話は約2355字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
どうやら豪は、勘違いをしているようだった。
彼が手を挙げて合図すると、窓の外がとつぜん、無数の光で明るくなった。
数万機のドローンが飛び立ち、夜空に男女が抱き合うシルエットを描き出した。周りの人々の驚きと羨望の声が聞こえるなか、豪は私を腕の中に引き寄せた。
空の光が「MK、愛してる」という文字に変わったとき、彼の吐息が私の耳をかすめた。そして「美希、永遠に愛してる」と、熱い言葉を囁いた。
空を見上げると、ドローンが描いたシルエットは、ゆっくりと夜の闇に消えていった。私は思わず、皮肉な笑みを浮かべた。
振り向くと、ちょうど豪の視線とぶつかった。
彼はレストランの隅にいる人影をじっと見つめていた。千佳だ。彼女のテーブルには空のワインボトルが二本置かれている。その姿は、まるで雨に打たれてうなだれた花のように寂しげで、人の心をくすぐるようだった。
豪は私の手を握る力を、とっさに強めた。私が痛みに声を上げるまで彼は気づかず、慌てて「すまない、美希。会社で急用ができた。運転手に送らせる」と謝った。
手つかずのままのディナーを前に、私は嘲笑うかのように口の端を吊り上げた。
街角で車を止めさせて運転手を先に帰らせ、レストランに戻った。すると遠くに、ぐったりした千佳を抱きかかえ、慌てて救急車に乗り込む豪の姿が見えた。
車で後を追って病院まで行くと、豪が彼女を抱いて駆け込んでいくのが見えた。彼は必死の形相で叫んでいた。「先生!妻はアルコールアレルギーなんです!妻を助けてください!」
看護師が千佳を救急治療室に運んでいくと、豪は糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。
その様子に、私の心臓はぎゅっと締め付けられた。まるで、昔私が横山家から逃げ出した時のようだった。あの時彼も同じように慌てふためき、よろよろと医師の手を掴んで、私を助けてくれと懇願していたかのようだった。
同じような光景。でも、豪が抱きしめる人も、口にする名前も、もう違っていた。
「永遠に愛してる」という彼の誓いの言葉は、泡のようにはかなく、跡形もなく消え去ってしまった。
千佳が処置室から出てくると、豪はすぐに彼女の手を握った。顔は真っ青だ。「頼むから、もう俺を怖がらせないでくれ。君の望みはなんでも叶えるから」
千佳は弱々しく顔をそむけた。「あの女のところへ行ってあげて。私はもともと他人だもの。彼女を愛してるって言ったじゃない。私のことなんか放っておけばいいわ」
豪は慌てて彼女の口を塞いだ。その目には、私には一度も見せたことのない切羽詰まった色が浮かんでいた。「俺たちの間じゃ、彼女こそ他人だ。約束してくれ、もう二度と自分を傷つけるな」
彼の後ろに立つ私の心臓は、まるで鈍いナイフで何度も切りつけられるようだった。息もできないほどの痛みが、私を襲った。
ふと、竹内家の地下室での出来事が頭をよぎった。豪の祖父の竹内龍介(たけうち りゅうすけ)が私に罰を加えようとした時、豪が私を必死に身を挺して守り、目を真っ赤にして叫んでいた。
「美希は俺の命だ!彼女に比べたら、あなたなんてどうでもいい!ただの他人が、どうして彼女に手を出せるんだ?殴るなら、俺を殴れ!」
なんて滑稽なんだろう。あれからいくらも経っていないのに、今や私が豪の言う「他人」になってしまったなんて。
心臓を重いハンマーで殴られたような衝撃だった。私はその場で凍りつき、身動き一つできなかった。
ちょうどその時、廊下の向こうで何かトラブルがあったらしい。若い看護師の手からトレイが滑り落ち、ガシャンと大きな音を立てた。
豪は素早くそれを蹴り飛ばし、千佳にかすり傷ひとつ負わせなかった。しかし、薬品の入ったガラス瓶は、運悪く私の足元へと飛んできた。
私はよろけて倒れ込んだ。砕けたガラスが手のひらに突き刺さり、あっという間に血が筋となって流れた。
周りから驚きの声が上がった。豪はちらりと看護師の方を一瞥したが、眉一つ動かさない。彼は財布から小切手を取り出すと私の足元に投げ捨て、千佳を庇いながら背を向けて去って行った。
私の目から、とうとう涙がこぼれ落ちた。
すべては一瞬の出来事だった。若い看護師は我に返ると、慌てて私を支え、手当のために部屋へ連れて行ってくれた。
処置室では、看護師たちのひそひそ話が聞こえてきた。
「竹内社長の奥さん、幸せすぎじゃない?あんなにイケメンで一途なんて」
「知らないの?アレルギーなんかじゃないのよ。救急治療室に入ったらすぐ、旦那さんを試しただけだって。まさかあんなに怖がらせるとは思わなかったって言ってたわ」
看護師の一人が、包帯でぐるぐる巻きになった私の左手を見て、同情したように言った。
「はぁ、とんだ災難でしたね。顔に傷がつかなくてよかったですよ……支えてくださる方がいらっしゃるかどうかで、人の運命って変わってくるものなんですね」
私は無表情でその言葉を聞いていた。体は氷のように冷たく、手のひらの鋭い痛みが心臓まで突き刺さるようだった。
私は黙って小切手をしまい、トレイに目をやった。そこには、血に染まった数珠のブレスレットが静かに置かれていた。
それは昔、豪が千段の階段を登って手に入れたものだった。彼は自ら仏の前で写経し、49日間、毎日お経を唱えて祈願した。そして、ようやく私の手にはめてくれたのだ。
その時、豪はこう言った。「美希、俺の愛がある限り、このブレスレットが君を永遠に守ってくれる」
その言葉がまだ耳に残っているのに、彼の心はとっくに変わってしまった。このブレスレットまでもが、もう私を守ろうとはしてくれない。
それなら、もう何もいらない。
私が処置室を出るとすぐ、豪が千佳の薬を替えに、看護師を呼びに来た。
視線の端に、トレイの中のブレスレットが映った。その瞬間、彼の瞳孔がきゅっと収縮した。
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