涙の果てに、幸せは訪れる第1話
この話は約1951字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。
私の夫は、誰もが羨む「理想の旦那」だった。
みんなが言っていた――「彼ほど妻を大事にする男はいない」って。
けれど、その幻想は妊娠六ヶ月の検診の日に崩れた。
うつ病に苦しむ従姉が夫に別れの電話をかけ、自殺をほのめかしたのだ。
彼は迷うことなく、私を病院に残して彼女のもとへ走っていった。
母は「広い心で、夫を貸してあげなさい」と私に告げ、兄は「お前がこの家にいられるのは亜由美のおかげだ。亜由美が欲しがるものは、全部譲ってやれ」と叱った。
あまりに理不尽だった。
本当の家族は私なのに。
彼女はただ、私の居場所を奪った「盗人」にすぎないのに。
そして私は決めた。
――もう、すべてを捨てて出ていこう。
だが、私がようやく背を向けたとき。
彼らは初めて、後悔に飲み込まれることになった。
* * *
私の夫は、誰もが羨む「理想の旦那」だった。
みんなが言っていた――「彼ほど妻を大事にする男はいない」って。
けれど、その幻想は妊娠六ヶ月の検診の日に崩れた。
うつ病に苦しむ従姉が夫に別れの電話をかけ、自殺をほのめかしたのだ。
市立病院の廊下で、私は叫んだ。
「仁、今日ここから出て行ったら、私たち終わりだから!」
二宮仁(にのみや じん)の背中が一瞬止まった。そしてすぐに引き返し、私を抱きしめて額にキスを落とした。
私は反射的にその手を掴んだ。離したくなかった。
けれど仁はゆっくりと私の手をほどき、耳元で囁く。
「紗奈(さな)、心配するな。ちょっと様子を見てくるだけだ。すぐ戻る」
そう言って、大股で走り去っていった。
残された私は、その場に立ち尽くしたまま、涙が止まらなかった。
――吐き気がする。優しく抱きしめておきながら、迷いなく別の女のもとへ行くなんて。
仁、これで本当に終わり。私はもう二度とあなたを許さない。
そこへ母が駆け寄り、私の手を掴んで必死に頼んできた。
「紗奈、大目に見てあげてちょうだい。お姉ちゃんがうつ病でね、今とても危ないの。仁を少しだけそばにいさせてあげて。お願い!」
胸の奥に鋭い刃が突き刺さったような痛みが走る。
実の母親が、自分の夫を他の女のところへ行かせろと頼んできている。
私が何も言えないでいると、今度は兄の橘健太郎(たちばな けんたろう)が飛び込んできた。
彼の第一声は怒鳴りつけるようなものだった。
「紗奈、お前ちょっとは大人になれないのか!?仁はただ亜由美(あゆみ)を慰めに行くだけだろ。何を騒いでるんだ?
それに、そもそもお前がこの家に居られるのは亜由美のおかげだ。彼女が口を利いてやったんだぞ。だったら欲しいものくらい譲ってやれ!」
私は後ずさりして母を見た。けれど母は視線を逸らし、私を一度も見ようとしなかった。
私を責め終えると、二人はそそくさと病室を出て行った。
その瞬間、スマホの通知音が鳴る。画面を開くと、亜由美からのメッセージが並んでいた。
【紗奈、また捨てられた気分はどう?
あんたなんか、この家にいる資格はない。田舎の豚小屋に帰るのがお似合いだよ。
言ったでしょう。この家は私のものだって。家族も、仁も、全部。私が望むなら、誰も迷わず私を選ぶのよ。あんたじゃない。
私だったら、そんな惨めな生き方してまで生きてないで、さっさと死ぬけど?生きてる意味ある?】
彼女から送られてきた毒のあるメッセージを見ても、もう何も感じなくなっていた。
幼いころから、私は一度も亜由美に勝てなかった。
家に戻ってからも、彼女はこうして挑発の言葉を繰り返し送りつけてきた。
私は一度、彼女が送りつけてきた挑発的なメッセージを両親に突きつけたことがある。亜由美の本性を、分かってほしかったからだ。
けれど両親は嫌悪の目で私を見た。
「紗奈、そんな卑しい手を亜由美に使うんじゃない。……お前には吐き気がする」
――吐き気。実の子に、そんな言葉を投げつける親がいるなんて。
後になって知ったことだが、亜由美はもう対策を済ませていた。
両親の前では「紗奈が最近、写真を加工して同級生の悪口を広めている」と告げ、私を諭すように頼んでいたのだ。
信頼って、無条件で与えられるものなんだね。でも、それは私には一度も向けられなかった。
思い返してみれば、本当の悪夢はあのときから始まっていたのかもしれない。
幼い頃、家族で旅行に行ったときのこと。観光バスが事故に遭った。
母はとっさに兄を抱きしめ、父は亜由美を腕に抱え込んだ。
二人はそれぞれの「宝物」を必死に守っていた。でも、その後ろで私は、人さらいに口を塞がれ、必死で暴れる私を、誰も見ていなかった。
涙を流して手を伸ばしても、幼い腕の力では大人を振りほどけない。
心の中で叫んだ。
お父さん、お母さん!お願い、振り返って!
娘がさらわれてるの!一度でいいから、私を見て!
けれど意識を薬で奪われるその瞬間まで、両親が私に振り返ることはなかった。
縦書き表示中:本文は右から左へスクロールします(← → キーでも移動できます)