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沈黙の愛第1話

この話は約2117字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。

生まれつき声が出せず、誰からも必要とされてこなかった、立花綾羽(たちばなあやは)。しかし、ある出来事をきっかけに、名家・伊丹家の夫人となった。

ところが、夫の伊丹汐恩(いたみしおん)が、自分を愛していないことは、綾羽自身が一番よくわかっていた。

そして、彼が長年思いを寄せていた、初恋・森永美玲(もりながみれい)が海外から帰国すると、予想通り二人の関係は再び動き出す。

綾羽は、自分の妊娠検査の結果をそっと隠し、静かに決意する。自分から身を引こうと。

* * *

立花綾羽(たちばなあやは)が妊娠検査の報告書を握りしめ、レストランの個室に入ると、ちょうど森永美玲(もりながみれい)が前菜を彼女の箸で、伊丹汐恩(いたみしおん)の口元へと差し出すところだった。

汐恩は微笑みながら、何の躊躇いもなく口にした。

妻の綾羽はよく知っている。

彼は他人の箸が触れた料理など、決して口にしないということを。

ただし、その「他人」が美玲であれば話は別だった。

「綾羽、来てたのね。どうして連絡してくれなかったの?言ってくれたら、迎えに行ったのに。ああ、ごめん、そうだった。あなた、話せないんだった」

美玲は穏やかに微笑みながら、まるで何気ない一言のようにそう言った。

綾羽はわずかに口元を引きつらせたが、何も言わずに席に着いた。

そのとき、美玲がふと思い出したように言った。

「そういえば、昨日汐恩のおじさまに会ったの。いつ子供ができるのかなって、とても楽しみにしてたわよ」

空気がピリッと凍りついた。

汐恩は鼻で笑い、冷ややかに言い放った。

「俺、口もきけない女に、自分の子どもを産ませるつもりなんてないよ。万が一、生まれた子どもまでそうだったらどうする?」

綾羽は、生まれつき話せなかった。

人生の中で、数えきれないほどの差別の言葉を浴びてきた。

だが、汐恩のように無関心を装った皮肉こそが、いちばん心をえぐられる。

彼女はそっと自分の腹に手を当てた。

ついさっき病院で医師から聞いた、あの結果が脳裏をよぎる。

——妊娠一ヶ月目。

子どもができたことで、ぎこちない夫婦関係が少しでも変わればと、淡い希望を抱いていた。

でも今の汐恩を見て、もう伝える意味すらないと感じた。

綾羽は、そっと報告書をバッグの奥にしまい込んだ。

一ヶ月前、酔いつぶれた汐恩に、無理やり関係を強いられた。

たった一度で命は宿ってしまった。

医者は伝えた。彼女の体では、今回を逃せば次はないかもしれない、と。

中絶すれば、二度と子どもを望めなくなる。

汐恩がこの子の存在を、認めるはずがないとわかっていた。

しかし、それでも綾羽はこの命を手放したくなかった。

......もう、出て行こう。

そんな思いが、胸の奥で芽生えた。

そのとき、美玲がまたにっこりと笑い、含みを込めて言った。

「でもさ、そうはいかないよね?ご家族も、早く孫の顔を見たいって言ってるのに。そんなこと言ったら、他の女の人に産んでもらうしかないんじゃないの?」

媚びるような目つきで汐恩を見つめる。

言葉では否定しつつも、その目は明らかに誘っていた。

案の定、汐恩も彼女に視線を向ける。

目に宿る熱に、遠慮などなかった。

「......じゃあ、お前が産んでくれるか?」

汐恩は、妻の目の前で、別の女に子どもを求めた。

それは、言葉にできないほどの侮辱であった。

美玲は、笑いをこらえながらも、頬をほんのり赤らめた。

「もう、冗談はやめて。奥さんの前よ?」

そう言いながら、また彼の皿にそっと料理を盛った。

それ以上は話を広げず、あくまで‘物分かりのいい女’を演じていた。

距離を詰めるでもなく、突き放すわけでもない。

その絶妙な間合いが、男の心を揺らすのだった。

「奥さん」という言葉を聞いた瞬間、汐恩は無表情のまま、綾羽へ視線をやった。

彼女は相変わらず、怯えたようにうつむいたまま、何も言わない。

その姿を見て、汐恩は鼻で笑った。

「やっぱり、何も言えないんだな」とでも言いたげに。

そう。綾羽と汐恩の結婚は、偶然が重なった結果にしかすぎなかったから。

半年前、汐恩は本来、美玲と結婚するつもりだった。

しかし、美玲の家柄が、伊丹家にふさわしくないと反対された。

プライドの高い美玲は、繰り返される侮辱に耐えきれず、ついには海外へ姿を消した。

ちょうどそのころ、汐恩の伯父が街中で倒れ、誰もが見てみぬふりをする中で、ただ一人、綾羽が彼に手を差し伸べた。

そのことに心を動かされた伯父が彼女を汐恩に紹介した。

汐恩は家族への反抗心からその「口のきけない女」を妻に選んだのだった。

綾羽自身も、まるで他人の幸せを奪ったような、罪悪感に苛まれていた。

本来、彼女は気が弱く臆病な性格だ。

この結婚を受け入れたのは、妹の高額な医療費のためだった。

でも今、脳裏にふとよぎった――

自分が身を引けば、すべてが丸く収まるのではないか?

汐恩は美玲と結ばれ、妊娠したことも知られずに済む。

それが一番いいのかもしれない。

彼女は汐恩に少なからず好意を抱いていた。

けれど同時に、彼が自分のことを心の底から嫌っていることも、痛いほど分かっていた。

綾羽はそっと視線を落とした。

もう、ここを去るしかない。

けれど......妹のことは、どうすればいいのだろう......

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