沈黙の愛第1話
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生まれつき声が出せず、誰からも必要とされてこなかった、立花綾羽(たちばなあやは)。しかし、ある出来事をきっかけに、名家・伊丹家の夫人となった。
ところが、夫の伊丹汐恩(いたみしおん)が、自分を愛していないことは、綾羽自身が一番よくわかっていた。
そして、彼が長年思いを寄せていた、初恋・森永美玲(もりながみれい)が海外から帰国すると、予想通り二人の関係は再び動き出す。
綾羽は、自分の妊娠検査の結果をそっと隠し、静かに決意する。自分から身を引こうと。
* * *
立花綾羽(たちばなあやは)が妊娠検査の報告書を握りしめ、レストランの個室に入ると、ちょうど森永美玲(もりながみれい)が前菜を彼女の箸で、伊丹汐恩(いたみしおん)の口元へと差し出すところだった。
汐恩は微笑みながら、何の躊躇いもなく口にした。
妻の綾羽はよく知っている。
彼は他人の箸が触れた料理など、決して口にしないということを。
ただし、その「他人」が美玲であれば話は別だった。
「綾羽、来てたのね。どうして連絡してくれなかったの?言ってくれたら、迎えに行ったのに。ああ、ごめん、そうだった。あなた、話せないんだった」
美玲は穏やかに微笑みながら、まるで何気ない一言のようにそう言った。
綾羽はわずかに口元を引きつらせたが、何も言わずに席に着いた。
そのとき、美玲がふと思い出したように言った。
「そういえば、昨日汐恩のおじさまに会ったの。いつ子供ができるのかなって、とても楽しみにしてたわよ」
空気がピリッと凍りついた。
汐恩は鼻で笑い、冷ややかに言い放った。
「俺、口もきけない女に、自分の子どもを産ませるつもりなんてないよ。万が一、生まれた子どもまでそうだったらどうする?」
綾羽は、生まれつき話せなかった。
人生の中で、数えきれないほどの差別の言葉を浴びてきた。
だが、汐恩のように無関心を装った皮肉こそが、いちばん心をえぐられる。
彼女はそっと自分の腹に手を当てた。
ついさっき病院で医師から聞いた、あの結果が脳裏をよぎる。
——妊娠一ヶ月目。
子どもができたことで、ぎこちない夫婦関係が少しでも変わればと、淡い希望を抱いていた。
でも今の汐恩を見て、もう伝える意味すらないと感じた。
綾羽は、そっと報告書をバッグの奥にしまい込んだ。
一ヶ月前、酔いつぶれた汐恩に、無理やり関係を強いられた。
たった一度で命は宿ってしまった。
医者は伝えた。彼女の体では、今回を逃せば次はないかもしれない、と。
中絶すれば、二度と子どもを望めなくなる。
汐恩がこの子の存在を、認めるはずがないとわかっていた。
しかし、それでも綾羽はこの命を手放したくなかった。
......もう、出て行こう。
そんな思いが、胸の奥で芽生えた。
そのとき、美玲がまたにっこりと笑い、含みを込めて言った。
「でもさ、そうはいかないよね?ご家族も、早く孫の顔を見たいって言ってるのに。そんなこと言ったら、他の女の人に産んでもらうしかないんじゃないの?」
媚びるような目つきで汐恩を見つめる。
言葉では否定しつつも、その目は明らかに誘っていた。
案の定、汐恩も彼女に視線を向ける。
目に宿る熱に、遠慮などなかった。
「......じゃあ、お前が産んでくれるか?」
汐恩は、妻の目の前で、別の女に子どもを求めた。
それは、言葉にできないほどの侮辱であった。
美玲は、笑いをこらえながらも、頬をほんのり赤らめた。
「もう、冗談はやめて。奥さんの前よ?」
そう言いながら、また彼の皿にそっと料理を盛った。
それ以上は話を広げず、あくまで‘物分かりのいい女’を演じていた。
距離を詰めるでもなく、突き放すわけでもない。
その絶妙な間合いが、男の心を揺らすのだった。
「奥さん」という言葉を聞いた瞬間、汐恩は無表情のまま、綾羽へ視線をやった。
彼女は相変わらず、怯えたようにうつむいたまま、何も言わない。
その姿を見て、汐恩は鼻で笑った。
「やっぱり、何も言えないんだな」とでも言いたげに。
そう。綾羽と汐恩の結婚は、偶然が重なった結果にしかすぎなかったから。
半年前、汐恩は本来、美玲と結婚するつもりだった。
しかし、美玲の家柄が、伊丹家にふさわしくないと反対された。
プライドの高い美玲は、繰り返される侮辱に耐えきれず、ついには海外へ姿を消した。
ちょうどそのころ、汐恩の伯父が街中で倒れ、誰もが見てみぬふりをする中で、ただ一人、綾羽が彼に手を差し伸べた。
そのことに心を動かされた伯父が彼女を汐恩に紹介した。
汐恩は家族への反抗心からその「口のきけない女」を妻に選んだのだった。
綾羽自身も、まるで他人の幸せを奪ったような、罪悪感に苛まれていた。
本来、彼女は気が弱く臆病な性格だ。
この結婚を受け入れたのは、妹の高額な医療費のためだった。
でも今、脳裏にふとよぎった――
自分が身を引けば、すべてが丸く収まるのではないか?
汐恩は美玲と結ばれ、妊娠したことも知られずに済む。
それが一番いいのかもしれない。
彼女は汐恩に少なからず好意を抱いていた。
けれど同時に、彼が自分のことを心の底から嫌っていることも、痛いほど分かっていた。
綾羽はそっと視線を落とした。
もう、ここを去るしかない。
けれど......妹のことは、どうすればいいのだろう......
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