死んだはずの夫には別の家族がいた第1話
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夫が事故で亡くなった日、私、高梨志央(たかなし しお)は睡眠薬を一瓶丸ごと飲み干した。
目を真っ赤にしてドアを蹴破り、死の淵から私を引き戻したのは、夫の親友の桐生朔也(きりゅう さくや)だった。
「湊人のためにも、生きろ!」
それから3年、何かにつけて私とぶつかっていた彼は、それまでの刺々しさをすっかり収めた。
私がごみを出しに行くだけでも、必ずついてきた。
ようやく過去を乗り越えられたと思った私は、いつしか朔也に惹かれていた。
彼と付き合い始めて2年目。陽性反応の出た妊娠検査薬を手に、彼を驚かせようと思っていたときだった。
引き出しの奥から、英語の結婚証明書を見つけた。
婚姻登録地はオーストラリア。日付は5年前だった。
新郎は、事故で亡くなったはずの元夫、久世湊人(くぜ みなと)。
新婦は、結婚する気はないと言い続けていた親友、沢渡千紗(さわたり ちさ)。
登録日は、私が睡眠薬を飲んだあの日だった。
証明書の隣にはスマホが置かれ、昨日、千紗から届いたメッセージが残っていた。
【この5年間、志央を見張っていてくれてありがとう。おかげで何も気づかれずに済んだわ。私と湊人は今、とても幸せよ】
私は妊娠検査薬を強く握りしめた。全身から血の気が引いていった。
私が救いだと信じていたものは、彼らが5年間、真実を隠し通すためについた嘘にすぎなかった。
* * *
手から妊娠検査薬が落ちた。
結婚証明書に記された二人の名前を、私はいつまでも見つめていた。
何かの見間違いだと思いたかった。
だが、その下に重ねられていたものを見て、本当に滑稽だったのは自分のほうだと思い知らされた。
妊婦健診の記録、小児科の領収書、粉ミルクやおむつの購入履歴。それに、数枚の写真。
写真の中では、湊人が幼い女の子を抱いていた。
千紗はソファに腰かけ、うつむいて穏やかに笑っていた。
湊人は死んでなどいなかった。
それなのに私は、彼の遺影を抱えながら、5年もの歳月を耐えてきた。
引き出しの中身を一つずつ元どおりに戻した。
床に落ちた妊娠検査薬を拾い、洗面所に入り、ごみ箱へ捨てた。
ついさっきまで、これが素敵なサプライズになると思っていた。
今となっては、ただの皮肉にしか見えなかった。
玄関のドアが開く音がした。
「志央」
玄関では、朔也が腰をかがめて靴を脱いでいた。手には紙袋を提げていた。
私の顔色に気づくと、額に触れようと手を伸ばしてきた。
私は反射的に身を引いた。
彼の手が宙で止まり、その視線も一瞬揺れた。
「どうした。具合でも悪いのか?」
「何でもない」
朔也はしばらく私を見たあと、靴箱からルームシューズを出し、足元へ置いた。
「また靴下も履かずに」
以前なら、こんなささやかな気遣いにいつも心を動かされていた。
最もつらかった頃、薬をきちんと飲むよう見守り、夜中に悪夢から目覚めさせてくれたのも彼だった。
私はそれを救いだと思っていた。
けれど今は、その場に立っているだけで全身が冷えていくようだった。
「よもぎ餅、買ってきたぞ」
彼は紙袋をテーブルに置いた。
「一昨日、食べたいって言ってただろ。仕事の帰りに寄ってきた」
彼はいつもそうだった。
私が何気なく口にしたことを、ずっと覚えていた。
目を見ただけで、私がつらいかどうかも察してくれた。
以前の私は、それだけ大切に思われているのだと信じていた。
彼がくれた温もりにすがるあまり、至るところにあった綻びに気づかなかった。
朔也はキッチンで牛乳を温め、ピルケースを取り出した。
「今日は薬、飲んだか?」
「飲んでない」
「じゃあ、今飲もうか」
差し出された薬を見ていると、体の芯まで冷えていった。
この5年間、いつ症状が悪化し、いつ診察を受け、いつ感情を抑えられなくなったか。
朔也は私以上に正確に覚えていて、私の弱みも何もかも知り尽くしていた。
私は顔を上げ、彼を見つめた。
「朔也」
「ん?」
「もし、湊人が本当は死んでいなかったと分かったら……私のこと、さぞ滑稽だと思う?」
彼の動きが一瞬止まり、声が低くなった。
「今日、俺の書斎に入ったのか?」
私は答えなかった。
私が答えずにいると、朔也は手にしていたカップを置き、書斎へ入っていった。
すぐに、奥から引き出しを開ける音が聞こえてきた。
数分後、出てきた彼はもう平静を取り戻していた。
「中にあるのは昔の書類だ。勝手に触るな。最近また調子が悪いから、余計なことまで考えるんだ。明日、診察に付き添う」
思わず笑いそうになった。
ここまで来ても、まだ私を騙し続けるつもりなのだ。
「行かない」
彼はじっと私を見た。
「どうして?」
「行っても無駄だから。もう治らない」
「志央!」
声に苛立ちがにじんだ。
「行かないって言ったの」
長い沈黙が落ちた。
やがて彼は、短くうなずいた。
「分かった。先に飯にしよう」
夕食の途中、彼のスマホが鳴った。
画面に目を落とすと、朔也は立ち上がってバルコニーへ向かい、ガラス戸を閉めた。
今まで気に留めたこともなかったのに、胸の奥に棘が刺さったようだった。
ほどなく電話を終え、彼が戻ってきた。
「明日の夜、ちょっと出てくる」
「どこへ?」
「友達の家だ。子どもが具合を悪くしたらしいから、様子を見に行く」
箸を持つ手に、ゆっくり力が入った。
あまりにも自然な口ぶりだった。何でもない用事のように。
けれど私には、もう分かっていた。
湊人と千紗の子どもだ。
私は顔を上げた。声がかすかに震えた。
「朔也。湊人は、本当は生きているんじゃない?」
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