死んだはずの夫が浮気した第1話
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夫の高橋岳(たかはし がく)は三年前、海で死んで、遺体さえも見つからなかった。
それから三年。生後ひと月の娘を抱え、途方に暮れる毎日。どんなに良い縁談が来ようと、全て断り続けた。
友人は皆、私に新しい人生を歩むよう勧めてくれた。でも私の心はすでに彼と共に深い海の底で息絶えていた。
このまま、色あせゆく記憶だけを抱えて、独りで老いていくのだろう。そう覚悟を決めていた。
その覚悟が揺らぐ日は、娘の三歳の誕生日に訪れた。
新装開店の水族館に連れて行った時のこと。巨大水槽の前に立つと、ダイバー服の男性がシロイルカを抱え、優雅に水中を舞っていた。
その背中や横顔が、懐かしい死んだ夫にあまりにも似ていた。
娘が小さな手を伸ばし、声を上げる。
「パパだ!」
男が振り向いた。私と目が合った――その瞬間、彼の目にかすかな動揺が走った。そしてさっと身を翻し、深みへ消えていった。
その夜、スマホをいじっていると、地元でも有名な資産家の令嬢が投稿した動画が目に入った。
祝賀会で笑う令嬢。その前にひざまずき、指輪を贈る男が映っている。
キャプションにはこうあった。
【三年前、海で私を救ってくれた恩人が、今日、私の運命の夫に。これからもよろしくね@takahashi】
* * *
夫の高橋岳(たかはし がく)は三年前、海で死んで、遺体さえも見つからなかった。
それから三年。生後ひと月の娘を抱え、途方に暮れる毎日。どんなに良い縁談が来ようと、全て断り続けた。
友人は皆、私に新しい人生を歩むよう勧めてくれた。でも私の心はすでに彼と共に深い海の底で息絶えていた。
このまま、色あせゆく記憶だけを抱えて、独りで老いていくのだろう。そう覚悟を決めていた。
その覚悟が揺らぐ日は、娘の三歳の誕生日に訪れた。
新装開店の水族館に連れて行った時のこと。巨大水槽の前に立つと、ダイバー服の男性がシロイルカを抱え、優雅に水中を舞っていた。
その背中や横顔が、懐かしいあの人にあまりにも似ていた。
娘が小さな手を伸ばし、声を上げる。
「パパだ!」
男が振り向いた。私と目が合った――その瞬間、彼の目にかすかな動揺が走った。そしてさっと身を翻し、深みへ消えていった。
その夜、スマホをいじっていると、地元でも有名な資産家の令嬢が投稿した動画が目に入った。
祝賀会で笑う令嬢。その前にひざまずき、指輪を贈る男が映っている。
キャプションにはこうあった。
【三年前、海で私を救ってくれた恩人が、今日、私の運命の夫に。これからもよろしくね@takahashi】
スマホの画面の光が、私の顔を青白く照らし出していた。
動画の中の彼は、片膝をつき、目の前の女性を見上げている。
その笑顔は、溺愛と優しさに満ち、かつて私が一番よく知っていたものだ。
今、彼はその笑顔を、この街最大の海運グループの令嬢、中島葵(なかじま あおい)に向けていた。
背景には、友人たちの囃し立てや祝福の声が、無数の針のように耳を刺す。
娘の花音(はなね)はとっくに眠りにつき、小さな頬には今日の興奮がまだほんのり残っていた。
彼女は今日、あの男をはっきりと「パパ」と呼んだ。けれど、彼は、私たち親子を見た瞬間、逃げるように姿を消したのだった。
震える指で、「takahashi」というアカウントをタップした。
プロフィール画像は、シロイルカを抱き、水族館を背景にした彼の写真。
投稿はなく、フォローは葵ひとり。
馬鹿みたいね、私。
三年前、救難隊は七日七夜で捜索を続けた。最後に見つかったのは、彼が乗っていたヨットの残骸だけ。
生存確率はゼロだと告げられた。
生後一ヶ月の花音を抱き、浜辺で一晩中泣き続け、ほとんど意識を失いかけた。
葬儀には遺体もなく、遺品を納めた墓があるだけだった。
ずっと、彼は死んだのだと思っていた。
間違ったね。
彼は死んでいなかった。
ただ、私と娘を捨てただけだった。
スマホの電源を切ると、部屋は墓場のような静寂に包まれた。
胸のあたりが、まるであの海難事故で中身をすべてえぐり取られたように、空洞のように疼く。
翌日、クマのできた目を隠し、花音を幼稚園に送り届けた。
親友の小林桜(こばやし さくら)から電話があった。心配そうな声だ。
「詩織(しおり)、大丈夫?ニュースで見たんだけど、中島家の令嬢の婚約話、あの男ってまさか……」
「ええ、彼よ」
平静に、しかし確かに答えた。自分の声が冷たい岩のように硬いことに気づいた。
電話の向こうで一瞬の沈黙が流れ、すぐに桜が怒りに震える声を上げた。
「あの最低野郎!よくもまあ!あの頃二人でどう苦労してきたか、忘れたの?花音がまだあんなに小さいのに、わかってるの!?」
私は窓ガラスに寄りかかり、流れ去る街並みを見つめた。目の前が次第に暗転していくようだった。
「詩織、どうするつもり?」
どうする?
私に、いったい何ができる?
「会いに行く」
私はそう宣言した。
「この三年間、私と花音が彼にとって何だったのか、直接聞きに行く」
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