桜散る階前の月影第3話
この話は約2091字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
病院で看護師が桜良の火傷の手当てをしている。
「笠置さん、この火傷はかなりひどいですね。しっかり手当てをしないと、跡が残ってしまいますよ」
桜良は静かにうなずいた。
全身に幾重にも巻かれた白い包帯が、かえって痛々しく目に刺さる。
ふと彼女の脳裏に浮かんだのは――昔、レストランで皿洗いのアルバイトをしていた時、不意に指先を切ってしまった日のことだった。
あの時、康英は涙を浮かべながら彼女の指を胸に抱きしめ、そっと撫で続けてくれた。
……だが、今の彼女は彼にとって、ただの無関係な他人にすぎない。
そう、あの日、離婚届に署名した時点で、二人の関係は――終わっていたのだ。
スマホが震え、康英からメッセージが届いた。
【傷は大丈夫か?僕は今そっちに行けない。何かあれば秘書に連絡してくれ】
桜良は即座に答えた。【大丈夫】
短い文を送ると、そのまま病院を後にして自宅へ戻った。
寝室に横たわると、心身は疲れ果てており、すぐに深い眠りに落ちた。
うとうとと眠っていた時、突然隣のマットレスが沈み込み、温かな体温がのしかかってきた。
荒々しく急ぐ男の動きが、火傷の傷口を無情に押し潰し、強烈な痛みが走った。
「痛っ!」桜良はその不埒な手を振り払った。
――目を開けると、そこにいるのは康英だ。
彼がこの家に戻ってきたのは、一体どれほどぶりだろうか。
最後に家で彼を見たのは、初めて離婚を切り出された夜――桜良が屋上から飛び降り、病院に運ばれたあの時だった。
彼は真っ赤な目をして彼女を抱きかかえ病院へ連れて行ったが、その日を境に、二人の距離は急速に遠ざかっていった。
以来、彼は「離婚に応じない限り、家には戻らない」と決めたかのように姿を消した。
桜良は家でひたすら待ち続けたが、それでも会えず、会社に押しかけ、やがて探偵まで雇って彼の行方を追った。
……だが、今の彼女にはもはや彼のことが必要ない。
康英の手が一瞬止まった。彼女の拒絶に驚いたのだろう。
やがて彼は体をひねり、隣に腰を下ろした。「……すまない。焦りすぎて、君の怪我のことを忘れていた。ただ、わかってほしいんだ。僕にとって妻は君だけだ。たとえ千絵子とどうあろうと……僕の心にいる妻は桜良、君だけだ」
――妻?
式も挙げておらず、公表もされていない。戸籍謄本にも記載されていない「妻」。
桜良の唇から、乾いた笑いがこぼれた。
――そんな「妻」の座など、もう欲しくはなかった。
彼女が黙ったままでいるのを、康英は「今夜の出来事に怒っているのだ」と勘違いし、額に優しく口づけを落とした。
「桜良、気持ちはわかる。でも、大局を考えてほしい。……さあ、ゆっくり安静にしろ。僕は今日は書斎で寝る」
夜半、傷口の痛みに耐えかねて、桜良は痛み止めの薬を探そうとリビングへ向かった。
書斎の前を通り過ぎた時、中から康英の低い声が漏れ聞こえてきた。
「……ああ、今日、離婚届を提出した。明日には取締役会に独身だと報告できる」
相手が嘲るように言った。「へぇ、桜良が離婚に応じるなんてね。やっとか。どうやって説得したんだ?」
康英はため息を漏らし、答えた。「……きっと、彼女は理解してくれたんだろう。昔から、僕を思いやってくれる人だから」
「じゃあ、本当にこれから千絵子と結婚するつもりなのか?」
長い沈黙の後、康英はゆっくりと口を開いた。
「最初は確かに、真野家に取り入りたくて千絵子に近づいた。しかし、一緒に過ごすうちに、毎日がリラックスできて楽しくなった。彼女はいつも僕の気持ちを理解してくれる。言葉を交わさなくても、たった一つの視線で通じ合える……桜良とは違う。あの顔を見るたびに、僕は思い出してしまうんだ。自分がどれほど惨めで、女に養われるしかなかったあの頃を……あの貧乏な日々は、僕の人生最大の悪夢なんだ」
――ドアの外で、桜良の体が震え、こらえきれずに涙が溢れ出した。その涙は火傷よりも熱く、頬を焼いた。
彼女が大切にしている、あの苦しい日々。自分を犠牲にしてまで彼を支えた年月。康英にとっては、それが「悪夢」だったのだろうか。
ならば、自分は一体何だったのだろう。
康英の声がなおも続く。「会社が上場したら、その日に千絵子にプロポーズするつもりだ」
――ついさっき、「妻は君だけだ」と言ったその口で、今度は別の女に結婚を誓おうとしている。
桜良の唇がひきつり、嗚咽と笑いが入り混じった。体の傷はじくじくと痛んだが、その痛みなど心の痛みの万分の一にも満たなかった。
……もう、何もいらない。ここから一刻も早く逃げ出したい。
翌日、桜良はデパートへ出かけ、おばの晴奈に渡す手土産を探している。
ふと目に留まったのは、一枚の上品なシルクのスカーフ。店員を呼んで見せてもらおうとした矢先、外からざわめきが響いた。
「道を開けてください!本日、法岡社長が貸し切りでご利用中です。他のお客様は速やかにご退店ください!」
屈強なボディーガードたちが次々と人々を追い出していく。その隙間から、桜良は康英と千絵子の姿を見つけた。
やがて、店内の一般客は全て追い払われた。ただ一人、隅の陰にいた桜良だけは、ボディーガードの目をかいくぐってしまった――
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