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桜散る階前の月影第2話

この話は約2010字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。

電話を切ったばかりの桜良のもとに、康英から着信があった。

「桜良、君ならきっと理解してくれると思ってたよ。会社の上場のためには、やむを得ない策なんだ。心配しなくていい。ただの紙切れにすぎない、僕たちの関係を変えるものじゃない。後で秘書を迎えに行かせるから、今夜はしっかり祝おう」

桜良の心が揺れた。――彼にとって、離婚は祝うべき出来事なのだ。

だが彼女は拒まなかった。十年の愛には、散り際に一度くらい「別れの食事会」をする価値があるのかもしれない。

豪華なレストランの一室で、向かい合って座る二人。

思えば、康英が裕福になり忙しくなるにつれて、一緒に食卓を囲む時間はほとんどなくなっていた。

「桜良、僕がかつて君に誓ったことは、もう全て実現した。会社が上場すれば、僕は使い切れないほどのお金を手に入れるんだ」

康英はグラスを掲げ、一気に飲み干した。

目の前の男は、もはやあの頃の貧しい少年ではない。その瞳には、名誉と富への欲望がぎらぎらと燃えている。

胸の奥に酸っぱくて苦いものがこみ上げてきて、桜良はグラスを持ち上げ、康英に向かって言った。「夢の実現、おめでとう。自由を祈っているよ」

烈しい酒が喉を焼き、その熱は心の奥底まで広がった。

桜良は零れそうな涙を堪え、心の中でそっと呟く――どうか私も自由になれますように。

その時、康英は一枚の書類を差し出した。

「これは株式譲渡契約書だ。株の五割を君に讓渡する。これで安心できるだろう」

桜良はそれを受け取り、口元にかすかな苦笑を浮かべた。

――欲しかったのは、決してこんなものじゃない。

その時、レストランの扉が勢いよく開き、康英の秘書・松多敦史(まつた あつし)が駆け込んできた。

「社長、千絵子さんが急ぎでお呼びです!」

康英は桜良を一瞥すると、すぐに立ち上がった。

「ここの料理はうまい。ゆっくり食べてくれ」

だが、どんなご馳走も、一人で食べれば無味同然だ。

桜良は静かに立ち上がり、席を離れた。ふと隣の個室の前を通りかかると、中から康英の声が聞こえてきた。

「千絵子、ごめん、少し用事で遅れた。料理はもう頼んである。君の好きなものばかりだ」

桜良の視線は、ドアのガラス越しに中へと吸い寄せられた。そこに並んでいる料理は――つい先ほど、自分の前に置かれていたものと全く同じだ。

……そうか。彼はとっくに千絵子とのディナーを用意していたのか。

自分との食事は、ただの「ついで」に過ぎなかった。千絵子とのデートこそが、彼が今夜一番気合を入れていることだ。

桜良の指先は掌に深く食い込み、それでも痛みを感じなかった。

「あなたが忙しいのはわかってるわ。でも今日は、私たちの交際三周年の記念日。どんなに遅くなっても、待っているつもりよ」千絵子の甘える声が響いた。

――三年。彼らはもう三年も一緒にいたのか。

ちょうど三年前、康英が初めて「離婚」を切り出した時と重なる。

個室の外で、桜良は唇を噛みしめ、込み上げる涙を抑えることができなかった。

そこへ料理を運ぶウェイターが通りかかり、熱々のスープを抱えていたが、足を滑らせてそのまま前に倒れ込んだ。

ぐらりと揺れた鍋から、スープが一気に桜良の全身に降りかかった。

「きゃあっ!」

火傷の激痛に、桜良は思わず叫び声を上げた。白い肌は瞬く間に真っ赤に腫れ上がった。

「も、申し訳ありません!本当にすみません、わざとじゃないんです!」ウェイターは慌てて平謝りした。

その声を聞きつけて、千絵子が個室から顔を出した。

「どうしたの?」

続いて康英も現れた。桜良を見ると、彼の眉間にわずかな皺が寄った。

「すみません、足を滑らせてこのお客様に……熱いスープをこぼしてしまって……」顔を青ざめさせ、震える声で説明するウェイター。

その瞬間、康英は咄嗟に桜良へ駆け寄り、彼女の腕を支えた。「どこを火傷した?ひどくないだろうな。見せてくれ!」

険しい表情と、思いがけないほどの必死さ。その様子を見て、千絵子は小首を傾げ、訝しげに口を開いた。

「康英……あなたたち、知り合いなの?」

その一言が、冷水のように康英を現実へと引き戻した。

彼は慌てて桜良の傷を確認しようとする手を引き、千絵子に向かって軽く笑みを浮かべながら取り繕った。「知り合いなわけないだろう。彼女の怪我がひどそうだったから、思わず助けただけだよ。君も知ってるだろう、僕は昔から人の苦しむ姿を見るのが苦手なんだ」

その言葉を聞いて、桜良の胸は凍りつき、心臓の鼓動が止まったかのように感じられた。

――そう、彼にとって自分は、ただ「同情すべき見知らぬ女」にすぎないのだ。

「すみません、すぐに病院へお連れします!」ウェイターは必死に謝りを繰り返した。

桜良は顔を上げ、努めて平然を装った。「大丈夫です。たいした怪我じゃありませんから、自分で処置します」

そう言って、その場を逃げるように立ち去った。これ以上ここにいたら、無理に繕った平静が粉々に砕けてしまう気がしたから――

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