桜が散るように、想いを手放す第3話
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あの通話の相手が誰なのか、あえて景吾に問い詰めることはしなかった。彼からも、一切の説明はない。
翌日、景吾の母親・藤原祥子(ふじわら さちこ)に誘われてウェディングドレスの試着に向かうと、ショップのソファにはすでに知花が座っている。その肩には白いレースのショールが羽織られている。
祥子は笑顔で手招きをする。「莉桜、いらっしゃい。見てちょうだい、知花はセンスがいいから、あなたに似合いそうなドレスを何着か選んでくれたのよ」
ハンガーラックに並んだドレスに目を落とす。どれもハイウエストでトレーンが短くて、肩幅が狭いデザインばかりだ。
「こういうのは、私にはあまり似合わないと思います」
祥子の笑顔が少し曇る。「結婚式ってのはね、年長者や経験者の意見を聞いておけば間違いないのよ。知花はたくさん結婚式に出席してるから、あなたよりずっと詳しいわ」
知花がソファーから立ち上がって、一着のドレスを手に取る。「これ、素敵だと思うよ。きっと景吾も気に入るはず」
「どうして私が着るドレスを、彼の好みに合わせなければいけないの?」
紅茶のカップを口元に運ぼうとしている祥子の手がピタリと止まる。「もうすぐ夫婦になるんだから、細かいことは言いっこなしよ。景吾は忙しいんだから、莉桜のほうが少し合わせてあげなさいな」
知花も小さな声で付け加える。「景吾は確かに、シンプルなデザインが好きだから。あまり派手なドレスを着ると、彼、戸惑っちゃうかも」
店員がドレスを試着室に運び込んだが、私はその場から動かない。
ついに、祥子が眉をひそめる。「どうしてそう意固地になっていくの?絵のことといい、オブジェのことといい、そして今日のドレスといい……いちいち突っかからなきゃ気が済まないの?」
祥子を見据える。「あの絵が替えられたこと、ご存じだったんですか?」
彼女は一瞬言葉に詰まる。「……知花から聞いたわよ。あの絵は古いし、新居の雰囲気には合わないって」
「あれは、母が描いてくれた絵です」その場の空気が、一瞬にして凍りつく。
知花がすぐさま目を潤ませる。「本当に知らなかったの。もし知ってたら、絶対に絵を変えようなんて言わなかったのに……」
祥子も気まずそうに声を落とす。「それは確かに、こちらの誤解だったわね。でも、景吾だって新居を良くしようと思っただけなんだから、いつまでも根に持たないの」
突然、すべてがひどくばからしくなる。私が理不尽な思いをしていることくらい、景吾も祥子もとうに分かっているのだ。それなのに彼らは、知花が傷つくことのほうを恐れている。
そこへ景吾がドアを開けて入ってくる。祥子は助け舟でも見たかのように声を上げる。
「景吾、ちょうど良かったわ。莉桜がね、このドレスは自分に似合わないって言うのよ」
景吾はハンガーラックを一瞥した。「知花が選んだのか?」
知花はこくりと頷く。「少し提案しただけ」
「じゃあ、この中から選べばいい」景吾は私の前に歩み寄って、肩にかかった髪を整えてくれた。
「莉桜、これ以上みんなを待たせるな」
視線を上げて彼を睨みつける。「着たくないと言ったら?」
彼の手がぴたりと止まって、低い声で言う。「結婚式はお前一人だけのものじゃないぞ」
思わず笑ってしまう。「新居もこのドレスも、私の意見は無視された。じゃあ、この結婚式は一体誰のもの?」
景吾は険のある目つきで私を見下ろす。「みんなの前でわがまま言うな」
知花が小声で宥めてくる。「莉桜、誤解しないで。景吾はただ、結婚式を無事に終わらせたいだけなの」
私はそれ以上何も言わず、背を向けて試着室に入る。
店員にファスナーを上げてもらっている時、スマホが震えた。内装会社のデザイナーからのメッセージだ。
【林様、以前お尋ねになっていた桜の絵の件ですが……】
【藤原様が残さなくていいと。逢坂様も古い額縁がお気に召さなかったようで、すでに倉庫へ送られたそうです】
メッセージの下には、一枚の写真が添えられている。薄暗い倉庫の片隅で、母の描いた桜の絵が壁に立てかけられている。キャンバスには痛々しい折り目がついて、額縁には埃が被っている。
その写真を見つめているうちに、胸の奥がゆっくり冷え切っていくのを感じる。
「林様、サイズはいかがでしょうか。きつくないですか?」と店員が尋ねる。
「少しきついです」
試着室のカーテンを開けて外に出ると、景吾が視線を上げる。彼は満足したように、少し和らいだ口調で言う。
「悪くないな」
だが、知花はハッと息を呑んで固まる。その手は、肩のショールをちぎれんばかりに強く握りしめている。
祥子が嬉しそうに笑う。「知花が景吾と結婚式を挙げてたら、きっとこんな感じだったわね」
景吾の顔色が変わる。「母さん」
自分の失言に気づいた祥子は、慌ててティーカップで口元を隠した。「ちょっと昔のことを思い出しただけよ」
目の前の大きな鏡を見る。そこには、知花が選んだドレスを着て、景吾の隣に立つ私の姿が映し出されている。
その光景はまるで、他人の体に私の顔だけを無理やり合成した、不気味な古い写真のようだ。
ふと視線を落とすと、机の上に一冊のファイルが置かれている。手に取って見ると、その表紙にはこう書かれている。
【結婚式進行予定表】
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