枕元の結婚写真が消えた日第2話
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薫の言葉は、残酷なほど正しかった。
私にはこの街に、友達と呼べる存在なんて一人もいなかったのだから。
晴彦と遠距離恋愛をしていたあの頃。
私はただ、彼を失いたくなくて、彼と共に歩む未来を築きたくて必死だった。
住み慣れた故郷を捨て、やりがいを感じていた仕事も辞めた。
当時の私は愛に溺れ、盲目になっていたのだと思う。
運命の相手はまさに彼であり、二人の未来は輝いているものだと信じて疑わなかった。
その後、私たちは確かに幸せだった。
愛する息子、薫も授かった。
薫は人一倍手がかかる子供だった。一方で晴彦は、自身のキャリアを諦めることを拒んだ。
「結婚っていうのは、どちらかが犠牲にならなきゃいけないものだろう?」
彼の言葉に含まれた暗示を理解するのは、そう難しくはなかった。
それに、この街で見つけた私の新しい仕事は、晴彦のそれと比べて将来性も待遇も劣っていた。
だから私は、家族が幸せでさえあればそれでいいと、自ら進んで彼の「内助の功」に徹する道を選んだ。家事を完璧にこなし、息子の世話に明け暮れる日々。
けれど、雅子が晴彦の研究室に異動してきてから、私たちの関係は音を立てて冷え切っていった。
かつてあった温もりは薄れ、壊れ、形を失っていく。
あろうことか薫でさえ、何度も無邪気に口にした。「雅子さんをママにしたい」と。
深夜の冷たい街角。スーツケースを引きずりながらタクシーを拾う。
吹き抜ける夜風は、凍りついた私の心よりも冷たく感じられた。
……
小さなアパートを借りた。
日当たりの良い、暖かな部屋だ。
主婦業の傍ら、私は密かに研究を続け、論文の執筆を進めていた。
今日、その論文が賞を取ったという知らせが届いた。
賞金は決して大金とは言えないが、私一人が一年半ほど慎ましく暮らしていけるだけの額はある。
今朝は目覚めてから、驚くほど心が軽かった。
目覚まし時計の不快な音で飛び起きる必要も、薫の登校準備に追われて髪を振り乱す必要もない。
鏡に向かい、時間をかけて丁寧にメイクをし、髪を整える。
見違えるほど、表情が明るくなった自分がそこにいた。
ジムにも通い始めた。
家にいた頃は、薫の相手や際限のない家事に追われ、運動量は足りていたかもしれない。
世間では私のことを、「仕事もせずに家にいる、潰しの利かない主婦」だと噂していたかもしれない。
でも、そんなことはどうでもよかった。
事実は違うと、私自身が一番よく分かっていたから。
晴彦の稼ぎだけでは、薫にあのような贅沢な暮らしをさせることは到底不可能だったのだから。
頭をよぎる雑念を振り払う。
そろそろ、履歴書を書こう。
もう一度働きたい。パソコンの画面の前ではなく、あの懐かしい実験室に立ちたい。
午後、大好きな激辛料理を食べに行った。
父子二人の好みに合わせていた頃は、食卓に辛い料理が並ぶことなどほとんどなかった。
久しぶりに口にする真っ赤なスープは、刺激が強すぎて頭がくらくらするほどだった。
いつの間にか、私の味覚や生活習慣まで、彼らに合わせて変わってしまっていたのだと気付かされた。
夜、晴彦から電話がかかってきた。
いつもと変わらない、感情の読めない淡々とした声。
「お前の荷物で、封がしてある箱が残ってる。中は見てない。住所を教えれば送るが」
少し考えてから、私は答えた。
「見てもいいわよ。昔取っておいた、どうでもいいガラクタばかりだから。もういらないわ。捨てて」
電話の向こうで、晴彦が何か言いかけて口ごもる気配がした。
「それと、これから私の荷物が出てきたら全部処分して。わざわざ電話してこなくていいから」
そう言い捨てて、電話を切った。
あの箱には、晴彦と共に過ごした日々の思い出が詰まっていた。
愛のこもったメモや、彼から贈られたささやかなプレゼント。
当時は捨てるのが惜しくて、一つ残らず大切に保管していたのだ。
だが今となっては、それらはただのゴミの山でしかなかった。
……
面接を経て、ある化学メーカーの研究職が決まった。
専用の実験室まで提供してくれるという、破格の待遇だ。
午後の退勤後、スーパーで食材をカゴに入れる。
これまでは、あの手この手で料理のレパートリーを増やし、偏食気味な父子の好みに合わせて献立を考えていた。
もう、自分の胃袋のためだけに料理をしても、バチは当たらないはずだ。
カートを押していると、スマホが鳴った。
画面には、薫の通う幼稚園の名前が表示されている。
「薫くんのお母さんですか?お迎えがまだのようですが……他のお子さんは皆さん帰られて、薫くんだけが、まだお迎えがいらしていないんです」
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