枕元の結婚写真が消えた日第1話
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寝室の枕元。そこには長年、私たちの結婚写真が飾られていた。
だがその日、夫はそれを研究室の先輩が描いたという油絵に掛け替えた。
その瞬間、私の心の中でぷつりと、何かが切れた。
晴彦の前に離婚届を突きつけたとき、彼は氷のように冷たい瞳で私を見上げ、吐き捨てた。
「たかが絵を一枚掛け替えたくらいで、何を言っている。離婚だと?正気か。あれほど可愛がっている息子の親権まで放棄するつもりか」
私は静かに頷いた。
もういい。すべて手放してしまおう。
手塩にかけて育ててきた息子もまた、父親と同じ穴の狢だったのだ。
彼らの心の一等地に居座っているのは、私ではなく、別の女なのだから。
* * *
寝室の枕元。そこには長年、私たちの結婚写真が飾られていた。
だがその日、夫はそれを研究室の先輩が描いたという油絵に掛け替えた。
その瞬間、私の心の中でぷつりと、何かが切れた。
晴彦の前に離婚届を突きつけたとき、彼は氷のように冷たい瞳で私を見上げ、吐き捨てた。
「たかが絵を一枚掛け替えたくらいで、何を言っている。離婚だと?正気か。あれほど可愛がっている息子の親権まで放棄するつもりか」
私は静かに頷いた。
もういい。すべて手放してしまおう。
手塩にかけて育ててきた息子もまた、父親と同じ穴の狢だったのだ。
彼らの心の一等地に居座っているのは、私ではなく、別の女なのだから。
……
上原晴彦(うえはら はるひこ)はテーブルの向かいに座り、能面のような顔で離婚届に目を滑らせている。
真面目に読む気などないのだろう。ざっと一通り眺めただけで、すぐに放り出した。
「絵を変えた程度で離婚とはな。頭を冷やせよ。俺はお前のヒステリーに付き合ってる暇はないんだ。それに、大事な息子はどうする。置いていくのか?」
私はふと、視線の先に目をやった。
そこには、とっくに就寝時間を過ぎているにもかかわらず、ソファでテレビに夢中になっている息子の上原薫(うえはら かおる)の姿があった。
私は告げた。
「いらないわ」
晴彦は何の躊躇なくペンをさらさらとペンを動かし、サインを済ませた。
その目は、私がまたいつもの癇癪を起こしているだけだとでも言いたげに、冷めきっていた。
今日の午後のことだ。
私はいつものようにキッチンに立ち、夕食を用意した。メニューは肉じゃが。あの二人の大好物だ。
壁の時計が時を刻む音を聞きながら待ち続けたが、玄関が開く気配はない。
晴彦に電話をかけても、たった二コールで通話が切れた。着信拒否だ。
時計の針が十時を回った頃、ようやく二人が帰宅した。
父子は、厳重に梱包された絵画を、まるで壊れ物を扱うかのように慎重に運び込んでくる。
私が三度も温め直された料理には目もくれず、二人は打ち合わせたかのように食卓を通り過ぎ、足早に寝室へと消えていく。
寝室のドア越しに、晴彦が枕元の結婚写真に手をかけ、取り外そうとしているのが見えた。
「どうして、急に外すの?」
私の問いかけにも、晴彦の手は止まらない。
「絵を変える。ただそれだけのことが、そんなに気に入らないのか」
薫がその隣に立ち、小さな体で精一杯背伸びをして、新しい絵を手渡そうとしている。
その横顔は目を細め、嬉しさで綻んでいた。
「パパ、また雅子さんと一緒にハンバーガー食べに行けるよね?」
晴彦は慌てて薫の口を塞ぎ、気まずそうに私を睨んだ。
「……黙っていたのは、お前に変な誤解をされたくなかったからだ」
武藤雅子(むとう まさこ)。晴彦の研究室の先輩であり、かつての私の先輩でもある女性だ。
最近の異動で彼と同じ職場になったとは聞いていたが。
私は視線を落とし、すっかり冷え切ってしまった食卓の料理を見つめた。
「……次からは、薫をファストフードには連れて行かないで。あの子、胃が弱いんだから」
「ああ」
晴彦は素っ気なく答えると、薫から絵を受け取り、満足げに枕元へ飾った。
位置を微調整し、スマホで写真を撮る。その顔には笑みが浮かんでいる。
「パパ、雅子さんって、すごいんだね!絵も描けるんだ」
薫は憧憬の眼差しで、壁に掛けられた西洋画風の油絵を見上げている。雅子の作品だという、その絵を。
晴彦はにこやかな表情を崩さず、スマホの画面を何度もタップしている。
薫は待ちきれないといった様子でベッドに這い上がると、小さな顔を突き出して晴彦のスマホを覗き込んだ。
「パパ、何話してるの?僕も雅子さんとお話したい!」
晴彦がサインを終えたのを見届け、私はその夜のうちに家を出る決心をした。
だが、八年近く暮らした部屋を見渡すと、何から手をつければいいのか分からず、途方に暮れる。
「今日はもう遅い。明日でもいいだろう」
晴彦が私を見ている。
私は首を横に振った。
「いいえ、今日行く」
必要最低限の荷物だけをまとめた。結婚指輪は元の場所に戻し、それ以外は何一つ持たない。
スーツケースを引き、玄関で靴を履いていると、薫が近寄ってきた。
何も言わず、どこか怯えたような瞳で私を見つめている。
六年間、この手のひらで慈しみ育ててきた小さな命。
胸の奥が、勝手にきしんで痛んだ。
私はしゃがみ込み、彼に告げた。
「パパと離婚することになったの。これからはパパの言うことをよく聞くのよ。お菓子ばかり食べては駄目。それから、魚介類のアレルギーがあるから、絶対に食べちゃ駄目よ」
だが薫は視線を泳がせ、私の言葉などまったく気にしていない様子で口を開いた。
「ふうん。でもパパ言ってたもん。どうせママはすぐ帰ってくるって。だってママ、ここには友達もいないし、僕とパパしかいないんだから」
そして、彼はつま先立ちになると、私の耳元に顔を寄せ、悪魔のように囁いた。
「ママ、もう帰ってこなくていいよ。僕、ママのこと嫌いなんだ。雅子さんの方がずっと好き。ママがいなくなったら、雅子さんが僕のママになってくれるんだから」
薫の言葉が、心に残っていた最後の拠り所を、無慈悲に削り取っていった。
「子供は嘘をつかない」という。だからこそ、彼らは遠回しな言い方などせず、残酷な本音をそのまま刃として突き立てる。
小さい頃から大切に、大切に育ててきた息子は、ただの一度だって、私を好きではなかった。
私はもう何も言わなかった。
ただ静かにスーツケースを引き、夜の街へと踏み出した。
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