朝露のように、かすかな光を待ってる第3話
この話は約1863字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
目を覚ましたとき、まず鼻をついたのは消毒薬の匂いだった。
美礼はゆっくりと目を開ける。視界に飛び込んできたのは、無機質なほど白い天井。
病室は静まり返っていて、点滴の滴る音さえはっきりと聞こえる。
ふと顔を横に向けると、ベッドのそばを見た――誰もいない。
意外でもなんでもなかった。
祐が来るはずもないし、月城家の人間が来ることもない。
それから数日間、彼女はひとりで病院に残り、静かに療養を続けた。
スマホには毎日のようにニュースの通知が届く。どれも祐と雫に関するものばかりだった。
祐が雫をプライベートドクターに連れて行ったり、祐が雫に限定モデルのバッグを棚一列分も買ってあげたり、祐が雫を海辺へ連れて行って気晴らしに付き合ったり……
以前なら、こんなニュースを見ればすぐに手を止め、祐のもとへ駆けつけていた。そして雫のそばから彼を引きはがし、無理やり家へ連れ帰っていた。
だが今は違う。
通知を無言でスワイプして消し、ただ薬を服用し、食事をとり、眠るだけ。
怪我がほぼ治ると、彼女は退院手続きを済ませ、タクシーであの屋敷へ戻った。
そこは彼女が何年も暮らしてきた場所。両家の年長者たちが無理やり二人を同居させ、感情を育てさせようとした家だった。
当時の美礼は嬉しくて仕方なかった。
三ヶ月もの時間をかけ、自ら設計し、内装を整え、家の隅々までを自分の思い描いた「居場所」に作り上げた。
リビングのカーテンは、彼女が選んだ淡いブルー。書斎の本棚は、彼女自身がデザインしたもの。キッチンの食器は、彼女が海外から一つひとつ持ち帰って揃えた。
けれど今、この場所はもう彼女のものではない。
美礼は二階へ上がり、持ち出す荷物の整理を始めた。
クローゼットの服を半分ほど畳んだところで、スマホが鳴る。
画面に表示された名前は――神谷和也(かみや かずや)。祐の友人だった。
「美礼!大変だ!」和也の声は切羽詰まっている。「祐のやつ、頭おかしいぞ!夏目雫にネックレスを勝ち取るとか言って、競馬のレースに出るつもりだ!前の事故で入れたプレートもまだ抜いてないのに、また転んだら脚が駄目になる!」
美礼は少し沈黙してから、静かに答えた。「……それで?私に何の関係があるの?」
「何の関係があるだって?」和也は言葉に詰まり、すぐに声を荒げた。「……止めに来いってことだよ!これまでだって、お前以外の言うことなんて、あいつは一切聞かなかっただろ?」
「彼は私の言うことなんて聞かない」美礼は淡々と続ける。「それに、もう関係ない。今も、これからも。彼が何をしようと、私には関係ないわ」
「何言ってるんだよ!?美礼、お前どうかして――」
彼女は最後まで聞かず、通話を切った。そして何事もなかったかのように、服を畳み続ける。
だがすぐにまた着信が来る。同じく和也だった。
今度は迷わずスマホの電源を切った。
その夜、テレビをつけるとローカルニュースが流れていた。
――【木野家御曹司・木野祐、競馬で落馬 搬送され治療中】
彼女は観る気もなく、リモコンでテレビの電源を切り、二階の寝室へ戻って寝た。
だがしばらくして、階下から慌ただしい足音が響いてきた。
彼女は気にせず横になっていたが、次の瞬間、寝室のドアが勢いよく開かれた。
祐だった。
病衣をまとい、左腕を包帯で吊ったまま立っていた。失血のせいか顔色は悪いが、その視線だけは鋭く、室内を見渡した。
美礼は一瞬驚き、体を起こす。「……どうして戻ってきたの?」
祐は彼女の淡白な態度を見て、瞳をわずかに細めた。
次の瞬間、苛立ったように冷笑した。「戻ってきた理由?決まってるだろ。お前がまた競馬の件で大騒ぎして、俺のガレージの車を全部ぶっ壊すんじゃないかと思ってな」
その言葉で、美礼は思い出した。
前回――彼が雫のために無茶な走りをして事故を起こしたとき、自分は怒りのあまり、ガレージにあった十数台の高級車をすべて叩き壊させたのだ。
その後、彼に指差して罵られた。横暴だ、狂っている女だ、と。
その記憶は、今でも鮮明だった。
美礼は深く息を吸い、胸の奥にわずかに残る痛みを押し込める。
そして、できるだけ穏やかな声で言った。「心配しすぎよ。もうあなたの車なんて壊さない。これからは、あなたが何をしようと自由。……私も、もう干渉しないから」
その言葉を口にした瞬間、自分でも驚くほど、体が軽くなった気がした。
――だが、祐はその場で固まった。
ついに、長年望んでいたはずの「自由」を手に入れた。
それなのに、彼女の口から告げられた瞬間、胸の奥で得体の知れない苛立ちが、雑草のように一気に広がった。
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