月光は、いま遠く第3話
この話は約1737字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
北斗は、絵里がドイツ語を理解できないと思い込んでいた。だから「ドイツのお客さん」からのメッセージを読むときも、特に絵里を気にする様子はなかった。
喉を小さく鳴らし、素早くスマホに「外で待ってろ、今夜は車の中で試してみたい」とドイツ語で返す。
そして名残惜しげに絵里へと視線を向けた。
「会社でドイツとの取引にトラブルがあって、今から行かないといけないんだ。
絵里、今日は早く寝て。明日の朝は、君の大好きな苺のケーキを買って帰るから」
絵里は小さくうなずいて、毛布にくるまっておとなしく寝るふりをした。
北斗が家を出て車で去っていくと、もはや眠気などすっかり消え去っていた。
絵里は慌てて服を着てベッドを抜け出し、車に乗り込み、彼のあとを追った。
「ドイツのお客さん」――きっとそれは詩織だとわかっていたけれど、それでもこの目で確かめて、すべてを諦めたかった。
やがて北斗の車が、白い塀に囲まれた大きな家の前で止まった。
門の前には、すでに猫耳のカチューシャをつけた詩織が待っていた。
その猫のメイド服は、生地が薄すぎて、絵里が見ているだけで頬が熱くなるほど。
腰もお尻もほとんど隠れておらず、背中には長い猫の尻尾までついている。
北斗の姿を見つけると、詩織は頬をわずかに染め、はにかむように言った。
「北斗さん、こういう服、初めてだから……なんだか変な感じ」
「可愛いよ」
北斗はいたずらっぽく尻尾をつまみ、突然そのまま彼女の後頭部を抱き寄せ、強引に唇を奪った。
そのキスは激しく、詩織はなす術もなく、ただされるがまま。
「北斗さん、やめ……」
彼女のか細い声も、北斗はすべて飲み込んで、詩織をそのまま車へと連れて行った。
二人はすっかり我を忘れ、近くで見ている絵里の存在など気付きもしない。
絵里は、北斗が詩織の服を乱暴に脱がせ、車のドアが勢いよく閉まるのをただ見つめていた。
車体が小さく揺れるたび、胸が締めつけられる。
夜風に乗って、詩織のかすかな甘い声が耳に届く――
「北斗さん、私と絵里さんのどっちが好き?」
車の揺れがぴたりと止まる。
しばらくしてから、北斗の冷たい笑い声が聞こえてきた。
「あいつはただの暇つぶしだよ。お前と比べるなんて、おかしいだろ?」
――ただの暇つぶし。
胸が裂けそうなほどの痛みに、絵里は思わず息が止まりそうになる。
それでも、心を抑えきれずに思い出してしまう。
――一ヶ月前、突然料理をしたくなって、包丁で指を切ったときのこと。
たいした傷じゃなかったのに、北斗は絵里の手を握りしめ、泣きそうな顔で「ごめん、料理なんてさせなきゃよかった」と何度も謝った。
「傷なんて浅いから、消毒だけで大丈夫よ」と伝えても、彼はなかなか離してくれず、「俺が悪いんだ、だって絵里は俺の宝物なんだから」と真剣に言った。
その言葉が嬉しくて、少しだけ呆れて、それでも幸せだった。
――自分は、ずっと彼の一番大切な存在だと思い込んでいた。
自分の将来を全部、彼に預けてもいいと思っていた。
でも今夜、やっと気づいた。
自分は、北斗にとって何よりも大切な宝物なんかじゃない。
ただの暇つぶしでしかなかったんだ。
そんなことを考えれば考えるほど、どうしようもなくおかしくなって、泣きながら、声を殺して笑い続けた。
やがて、すべてがどうでもよくなった――
家には戻らず、絵里は車を走らせ、夜の街を当てもなく彷徨った。
深い夜から明け方へ――
誰もいない街から、やがて人と車で賑わう朝へ。
夜が明けた頃、その足で直接、病院へ向かった。
昨日、絵里は自分が妊娠していると知ったばかりだった。
本当は、北斗にサプライズをしようと思っていた。
でも今日は――中絶手術の予約をしていた。
予約は午前十時。
廊下で順番を待ちながら、何度も何度も心の中で自分に言い聞かせる。
――この子は、生まれてもきっと幸せにはなれない。
――最初から父親に愛されることなんてない。
そんなの、あまりにも可哀想だ。
けれど、いざ手術室の前に立つと、どうしても足が動かない。
どうしても、この子を手放すことができなかった。
「深山絵里さん!」
医師に名前を呼ばれた瞬間、もうその場にはいられなくなって、駆け出すようにその場を離れた。
「絵里……」
まさか、こんな場所で北斗と詩織に会うなんて、夢にも思わなかった。
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