月光は、いま遠く第1話
この話は約2379字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。
「絵里、本当に綺麗だ……」
煌びやかなグランドクリスタルのピアノの上で、氷川北斗(ひかわ ほくと)に何度も口づけされながら、深山絵里(みやま えり)は全身の力が抜けていくのを感じていた。
こんなふうにされるなんて、ただでさえ恥ずかしくてたまらないのに――
そんな言葉までかけられて、絵里はつま先まで恥ずかしさが伝わり、思わず身体が強ばる。
「絵里、もっと力を抜いて……もう限界だよ」
北斗が耳元で囁いた。
絵里は顔を赤らめて、そっと視線を逸らす。どうしても彼の顔を正面から見られなかった。
でも、北斗は優しくも強引に、絵里の顔を自分のほうへ向けさせる。
整ったスーツ姿なのに、ふいに見せる強引さと野性味。
狼のような眼差しが、絵里のすべてを奪っていく。
そのとき、彼はドイツ語で……
* * *
「絵里、本当に綺麗だ……」
煌びやかなグランドクリスタルのピアノの上で、氷川北斗(ひかわ ほくと)に何度も口づけされながら、深山絵里(みやま えり)は全身の力が抜けていくのを感じていた。
こんなふうにされるなんて、ただでさえ恥ずかしくてたまらないのに――
そんな言葉までかけられて、絵里はつま先まで恥ずかしさが伝わり、思わず身体が強ばる。
「絵里、もっと力を抜いて……もう限界だよ」
北斗が耳元で囁いた。
絵里は顔を赤らめて、そっと視線を逸らす。どうしても彼の顔を正面から見られなかった。
でも、北斗は優しくも強引に、絵里の顔を自分のほうへ向けさせる。
整ったスーツ姿なのに、ふいに見せる強引さと野性味。
狼のような眼差しが、絵里のすべてを奪っていく。
そのとき、不意に部屋中にスマートフォンの着信音が鳴り響いた。
タイミングの悪さに、北斗はあからさまに不機嫌な顔を見せる。
それでも、ディスプレイに親友・亮介(りょうすけ)の名前が出ると、しぶしぶ電話を取った。
通話がつながると、北斗はドイツ語で「ドイツ語で話せ」とだけ告げる。
「北斗、来月の結婚式、本当に逃げる気なのか?」
――逃げる?
思わず、絵里の思考が止まる。
逃げるって……何のこと?
すぐに北斗の投げやりな声が聞こえてきた。
「逃げないで本気で結婚するとでも思ってるのか?みんな知ってるだろ。俺が絵里に近づいたのは、あいつの兄と因縁があったからだ。
彼女の兄はもういない。兄の借りは妹で返すしかないだろう。俺は、あいつに復讐するために結婚するんだ。
深山悠真(みやま ゆうま)は、唯一の妹を本当に大切にしていた。俺がその妹をもてあそび、挙式当日に逃げて、彼女に恥をかかせたと知ったら、きっとあいつは成仏できないな」
指先がかすかに震える。心臓の奥が、凍りついたみたいに冷たくなっていく。
――どうして。
お兄ちゃんと北斗の間に、こんな深い溝があったなんて、私は何も知らなかった。
ただ、お兄ちゃんがいなくなったあと、北斗だけが寄り添ってくれて――
やさしく慰めてくれて、傷だらけだった私の心を、少しずつ癒やしてくれた。
北斗は、絶望の底に沈んでいた私にとって唯一の光だった。
でも、今はっきりわかる。その光は、最初から私のものじゃなかった。
彼がくれた優しさも、言葉も――全部、嘘だったんだ。
――全部、嘘だった……!
「悠真が北斗を怒らせたのが悪いんだよ」
亮介が、ドイツ語で続ける。
「でもさ、あいつの妹は本当に綺麗だよな。あんな美人、見たことないぜ。
北斗、式が終わって彼女を捨てたら、俺にも回してくれないか?」
「俺もだ!絵里ちゃんの細い腰、ずっと気になってたんだ。
北斗、俺に一晩貸してくれ。あの顔、何度でもイケるよ!」
堂島亮介(どうじま りょうすけ)の周囲には、他にも男たちがいる気配があった。
そして、絵里の耳に飛び込んできたのは、さらに下品で卑劣な言葉――
「絵里ちゃんはダンサーだろ?踊れる子は最高らしいぞ。あんな子、俺も一度は味わってみたいもんだ!」
「俺も混ぜてくれよ!一晩で十回でもいけるぜ、はは、もう我慢できねえ!」
――北斗の表情が、さっと冷たく曇った。
あまりの怒りと絶望に、絵里の胸はどんどん冷え、全身が真冬の吹雪の中に閉じ込められたようだった。
長く一緒にいたからこそ、北斗の独占欲が人一倍強いことは、誰よりもわかっている。
だから、たとえ復讐のために近づいてきたのだとしても、こんなふうに自分の体を侮辱されるのを、彼が許すはずがないと思っていた。
卑劣な言葉に、きっと北斗は怒ってくれる――そう信じていた。
でも、北斗が口にしたのは――
「俺は潔癖だからな。芝居が終わるまでは近づくな。俺が逃げたあとは、好きにすればいい」
「北斗、いつ来る?みんな今、個室で待ってるぞ。詩織(しおり)もいるよ」
亮介が一息置き、続ける。
「詩織、ゲームで負けて罰ゲームだ。三分間フレンチキスだぞ。
お前が来ないなら、誰もキスしてやれない。その代わり、彼女は強い酒を三杯一気だ!」
「俺が面倒見てる子だから、あんまりからかうなよ。すぐ行く」
そう言って、北斗は電話を切った。
彼は絵里の腰をぐっと抱きしめ、急ぐように、荒々しく行為を終わらせた。
……すべてが終わると、片手で絵里を寝室へと抱き上げ、額に深くキスを落とす。
「絵里、会議に行ってくる。すぐ戻るから」
絵里は何も言わず、目を閉じて顔を横にそむけた。
――まさか、バレエ専攻の自分がドイツ語を理解しているとは思っていないんだろう。
だけど、八歳の頃には、もう六ヶ国語を話せるようになっていた。
北斗の裏切りも、嘘も、全部見抜いている。
こんな人を好きになった自分が、バカみたいだ。
ドアが閉まると、絵里は静かにスマホを取り出し、ある番号へ電話をかける。
「先生、半月後、一緒に海外に行かせてください」
先生と一緒に出国する日は、ちょうど北斗との結婚式の日。
北斗が芝居好きなら、最後まで付き合ってあげる。
彼がどんな顔をするのか――
結婚式当日、私がいなくなったら、彼は驚くだろうか。
縦書き表示中:本文は右から左へスクロールします(← → キーでも移動できます)