月はかつて、君を想う第3話
この話は約2134字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
私の言葉が落ちた直後、宇佐美陸斗(うさみ りくと)の気だるい声がスマホ越しに響く。
「今日は西から太陽が昇ったのか?瀬戸さんという衛星が、ついに軌道離脱?」
相変わらず軽口ばかり。私は遠慮せず、単刀直入に言う。
「足りるかどうかだけ答えて。足りないなら他に当たる」
「十分どころか、こっちが条件を上乗せしたいくらいだ」
軽薄な調子は聞き流し、私は腕時計に目を落とす。
「じゃあ三十分後、森ホテルのロビーで」
私の誘いに、珍しく彼は少し慌てる。
「瀬戸、今のは冗談だぞ。仕事だけじゃなくて、俺まで巻き込む気か?」
私はこめかみを押さえながら答える。「あなたに興味はない。ただ中村社長と会うのに同行してほしいだけ」
「分かった。ホテルじゃなくて、今から迎えに行く」
目の前の三つのスーツケースを見つめ、私は住所を送る。
十分ほどで、陸斗が玄関先に現れる。
三つのスーツケースを運び出す私を見ても、彼は何も聞かない。私も何も言わない。
車に乗ると、彼は成林建設の予算資料の束を差し出してくる。
私は静かにページをめくり、道中は一言も交わさない。
ホテルに着くと、慎也から送られてきた情報を頼りに、最上階のスイートへ向かう。
ドアをノックし名乗ると、中村社長が不機嫌そうに扉を開け、私を睨む。
「橘は須藤を寄こすって言ってたはずだ。なんでお前なんだ?」
慎也が嘘をついていることは分かっていた。
それでも、その嘘が目の前で暴かれると、胸に鋭い痛みが走る。
手のひらに爪を食い込ませ、無理やり営業用の笑みを作り、隣の陸斗を引き寄せる。
「須藤は今夜来られません。このまま時間を無駄にするより、プロジェクトの話をしませんか」
陸斗を見て、中村社長は眉をひそめるが、何も言わず私たちを部屋へ通す。
そして再び外に出た時、陸斗の手には正式に押印された契約書がある。
その頃、慎也のもとにも、中村社長から協力打ち切りのメッセージが届く。
今後一切取引しないと書かれたその一文に、彼は怒りで顔を歪める。
手に入りかけた案件を逃しただけでなく、すべてを台無しにされたのだから無理もない。
傍らの遥香は、目を赤くしながら口を開く。
「慎也さん、ごめんなさい。私が体調を崩して行けなかったせいで、汐里さんが意地になって契約を壊してしまって……」
そう言いながら咳き込み、布団を跳ねのけて起き上がる。
「今から汐里さんの代わりに、ホテルに行って謝ってきます……」
その健気な姿勢に、慎也はさらに胸を打たれ、同時に心配する。
彼は遥香を引き止め、優しく言い聞かせる。
「お前のせいじゃない。問題は瀬戸の仕事のやり方だ。とにかく今は休め。俺が体にいいスープを作る」
彼女をベッドに戻し、スマホを持ってキッチンへ向かう。
コンロの前に立ち、彼は立て続けに何度も私へ電話をかけるが、私はすべて拒否する。
苛立った彼はLineでメッセージを送ってくる。
【これ以上無視するなら離婚する】
その一文を見て、思わず笑った。
ちょうど望んでいた言葉を、自分から差し出してきた。
返信しようとした瞬間、今度はビデオ通話がかかってくる。
出るつもりはなかったが、隣の陸斗が勝手に通話を繋げてしまう。
画面が開いた途端、慎也は怒りをぶつけてくる。
「なぜ契約を潰したのか、それで何の得があるのか。会社にはお前の取り分もあるだろう」
かつて彼が星和グループを立ち上げた時、私は一人でいくつもの役割を担う。
営業として外を回り、戻れば経理、法務、時には清掃までこなす。
あの頃、会社が軌道に乗れば株式を渡す、同等の権限を与えると彼は言っていた。
だが七年経った今、株主は増えても、そこに私の名前はない。
年明けには、私の実績の半分を遥香に割り当て、彼女に5パーセントの株を与えた。
理由は、彼女も接待に関わったこと、そして下から這い上がる成功例としてふさわしいから。
さらに支援してきた相手だから、利益は内に回すべきだと。
その時の私は、会社のためだと納得した。
だが一か月も経たず、彼は遥香に自分と同じ権限を与えた。
私の決裁ですら、彼女の承認がなければ通らない。
そこまで思い出し、私は思わず笑う。「そうなの?あなたが言うまで、自分がただの社員だと思っていたわ」
「つまり嫌がらせか」
歯を食いしばるように、彼は声を荒げる。
「遥香を助けたからか?その腹いせに、会社の将来を台無しにするのか?
瀬戸、お前は分かっていると思っていた。だが完全に見誤っていた」
一拍置き、吐き捨てるように言う。「本当に失望した」
かつての私は、この言葉を何より恐れていた。
だから彼に合わせ、何度も自分を変え、気に入られようと必死だった。
だが今日、遥香に向けるあの自然な愛情を見た瞬間、すべてが終わる。
もうこの滑稽で惨めな関係を守る必要はない。
私は淡く笑う。「そこまで失望させたなら、いっそ解雇して。これ以上損害を出す前にね」
予想外だったのか、彼は数秒黙り込む。次の瞬間、怒りに任せて手にしていたスプーンをシンクへ投げつける。
陶器が割れる音が響く。
その時になって初めて、彼がキッチンに立ち、可愛らしいエプロンをつけて料理を作っていることに気づく。
同時に、スマホの画面に通知が一つ表示される。
何気なく開くと、遥香がInstagramに投稿し、私をタグ付けしている。
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