月が落ちる昏い霧の夜第3話
この話は約2641字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
少し離れたところで、美羽がお年寄りを支えながら受付に並んでいた。彼女は服が破れ、おでこには擦り傷があった。足も痛むのか、足を引きずっている。
美羽も翼に気づいた。彼女の目はぱっと輝き、あいさつしようと手をあげかけた。
でも、彼が梨花を抱きかかえているのが見えた瞬間、その手は固まった。そして、瞳からさっと光が消えた。
美羽は顔をそむけ、もう二人の方を見ようとはしなかった。
それとほぼ同時に、梨花は腕をぎゅっと強くつかまれた。傷口に鋭い痛みが走る。
彼女はひっと息をのみ、思わず翼を見上げた。
翼は眉をきつく寄せている。必死に感情を抑えようとしている顔の下で、隠しきれないほどの心配が渦巻いていた。
さっき自分が離婚を切り出した時でさえ、この男は少しも動揺せず、平然としていたのに。
それなのに、美羽が怪我をしているのを見ただけで、こんなにも取り乱すなんて。
愛してるか、愛してないか。こんなにも分かりやすいなんて。
胸がちくりと痛み、梨花は考えるよりも先に口を開いていた。「パーティーの時、あなたが助けたウェイトレスでしょ。見に行かなくていいの?」
翼の瞳の色がすっと暗くなる。その声は冷たく、警告するものだった。「梨花、お前は踏み込みすぎだ!
できた妻なら、余計な口出しはしない。何もしていない女性を疑ったりしない。
屋敷に戻ったら、まず仏壇で家のルールを覚え直して反省しろ!」
翼は我を忘れていた。彼は梨花の腕をつかんで、足早に外へ向かう。
梨花はよろめきながら翼の後を追った。傷口からは血が滲みだし、立っているのもやっとなくらい痛む。
「痛い」梨花は眉をひそめて、身をもがいた。
翼は少しだけ力をゆるめたが、足を止めはしなかった。そのまま彼女を駐車場まで引っ張っていく。
車に乗ると、彼はいつものように、まず梨花のシートベルトを締めてあげた。
必死に感情を押し殺している翼の横顔を見ていると、梨花の心は大きな手でわしづかみにされたようだった。腕の傷より、何百倍も、何千倍も痛い。
翼は運転しながら、まるで別人のように、秘書の亮太にメッセージを送って、美羽のことを調べさせている。
いつも自分を律して冷静な男が、次々とルールを破っていく。梨花は、そんな彼を見ていると、なんだかもう、どうでもよくなった。
彼女は窓の外に目を向けた。外はどしゃ降りの雨だ。ガラスを叩く雨粒が、まるで自分の心に打ちつけられているように感じ、胸の奥がずきずきと痛んだ。
車が突然、急ブレーキをかけた。不意を突かれた梨花は、前のめりになる。
「あっ」彼女は小さく声をあげた。シートベルトが食い込んで赤くなった肩が、じんじんと痛む。
「降りてそこで待ってろ。迎えの運転手を手配した」翼の低い声が響いた。
梨花は信じられないという顔で彼を見た。「外は、雨が降ってるわ」
翼は顔色ひとつ変えず、有無を言わせない口調で言った。「運転手はすぐ来る」
梨花は彼の目を見つめ返した。胸がずきりと痛み、もう言い返す気力もなくなった。
「わかったわ」
彼女はドアを開け、ドアポケットにあった傘を手に取った。
「待て」翼が鋭く声をかけた。
梨花の心臓が、なぜかどきりと跳ねた。瞳に一瞬光が宿り、彼の方を振り返る。
すると翼は、梨花の手から傘をひったくった。そして自分のジャケットを脱いで彼女に差し出しながら言った。「この傘は使うな」
そこで梨花は初めて気づいた。傘のカバーに、美羽の名前の刺繍がある。あの女のものだったのだ。
この男は、何百万円もするジャケットを妻に羽織らせて雨に濡らすのはよくても、美羽の傘を少し使わせるのさえ惜しいのだ。
梨花の瞳から光が消え、彼に抱いていた最後のかすかな希望も、完全に消え去った。
彼女はジャケットを受け取らず、そのまま車を降りた。
梨花がまだちゃんと立てていないうちに、翼の車は走り去ってしまった。
遠ざかっていく車を見つめながら、梨花の心は完全に冷え切ってしまった。
次の瞬間、ミキサー車が猛スピードで走り抜け、泥水が頭から浴びせかけられた。息もできず、視界も奪われる。その衝撃で、彼女はよろめいて後ろに数歩下がった。
梨花は無様に転んでしまった。周りから突き刺さる、たくさんの奇異な視線。こんなに恥ずかしくて、みっともない思いをしたことは、今まで一度もなかった。
その瞬間、抑えきれないほどの悔しさとみじめさが、大きな波のように押し寄せてきた。息もできなくなるほど、彼女はその重圧に押しつぶされそうだった。
梨花は唇をきつく噛みしめ、泣き出すのを必死にこらえた。そして、震える体に鞭打って、なんとか立ち上がった。
山崎家の屋敷に戻った時、彼女はずぶ濡れで、服は血と泥にまみれていた。
翼の母親・山崎渚(やまざき なぎさ)は梨花を見るなり眉をひそめ、不機嫌そうに彼女を家から追い出した。
「この格好!少しは山崎家の嫁としての自覚があるの!
家の外で反省して。自分が何をしたか、よく分かるまで入ってきてはいけません!」
渚は翼の継母だ。愛人の座から今の地位にのし上がった、腹黒い女である。
彼女は翼には手出しできないため、その矛先を梨花に向けている。表でも裏でも、ことあるごとに梨花に嫌がらせをしていた。
いつもなら、翼が梨花をかばってくれた。渚と二人きりにさせることも、決してなかった。
けれど今日、彼は美羽のために、梨花だけを先に屋敷へ送り返したのだ。
胸がちくりと痛んだが、梨花は気を取り直し、渚へと視線を向けた。そして、毅然とした態度で口を開く。
「おばさん、私は雨に濡れただけです。何も悪いことはしておりません。汚れているのなら、洗い流して着替えれば済むことです」
「あなたは何様のつもり?よくもそんな口が利けるわね!」
渚はさっと顔色を変えると、怒りにまかせて立ち上がり、彼女に駆け寄った。そして、平手で打とうと手を振り上げる。
「おばさん、おやめください」梨花は渚の手首をつかんだ。態度は崩さず、言葉遣いも丁寧なままだ。「山崎家では、人に手を上げることは禁じられています」
「あなたが……家のルールを盾に私を脅す気?」渚はカッとなって、顔を真っ赤にした。彼女は梨花を荒々しく突き飛ばす。「私が怖気づくとでも思った?姑に口答えするなんて、罰せられて当然でしょ!
誰か!この子を押さえて!」
使用人たちがどっと押し寄せ、あっという間に梨花を取り押さえた。
渚は彼女の頬を思いきりひっぱたいた。そして、もう一度手を振り上げた、その時だった。戸口から、氷のように冷たい声が響いたのは。
「やめろ!」
縦書き表示中:本文は右から左へスクロールします(← → キーでも移動できます)
第4話は公式アプリで
当サイトでの試し読みはここまでです。アプリをインストールし、下のアプリ用コードを入力すると、この作品の第4話からそのまま読み進められます。
R12557- 下のボタンから公式アプリをインストールします(無料)。
- アプリを開き、「コードを入力」にこのコードを入れると、この作品が本棚に入ります。
作品ページへ戻る 当サイトに掲載しているのは試し読みの章だけです。