月が落ちる昏い霧の夜第2話
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翼が美羽を抱いて出てくるのを見て、梨花は慌てて物陰に隠れた。
翼はずっと美羽を抱きしめていて、車に乗ってからも降ろそうとしなかった。
美羽は翼の腕の中で心地よさそうな体勢になると、彼の腕にしっかりとしがみついて、楽しそうにぺちゃくちゃとおしゃべりを続けた。
翼はとろけるような笑顔で、彼女の言葉ひとつひとつに優しく相槌をうっていた。
こんな扱いは、梨花が一度も受けたことのないものだった。昔、急な虫垂炎で気を失いそうなほどの痛みに襲われたときでさえ、彼の隣で静かにおとなしく座っているしかなかったのに。
車がどんどん遠ざかっていく。梨花はその場に凍りついたまま、胸に生々しい傷口をえぐられたような、冷たい痛みを感じていた。
薄い患者衣のまま冷たい風に吹かれて、梨花はずっとそこに立ちつくしていた。体が冷え切って感覚がなくなるころ、ようやく我に返った。
震える手で、彼女は探偵に連絡し、美羽の身元を調べるよう頼んだ。
すぐに、調査資料が送られてきた。
美羽は貧しいけれど、芯の強い大学3年生だった。
彼女と翼の最初の出会いは、驚いたことに梨花自身がきっかけだったのだ。
梨花はスマホを握る指にぐっと力をこめた。断片的な記憶が頭のなかに浮かんでくる。
美羽は配達のアルバイトで、以前、家に解熱剤を届けに来たことがあった。
彼女のバイクが、梨花が玄関前に停めていたパナメーラにぶつかってしまったのだ。それでも美羽は、絶対に弁償すると言って聞かなかった。
梨花がいくら気にしなくていいと言っても彼女は聞かず、あれこれ理屈を持ち出した。
「私は責任から逃げるような人間じゃありません。今はすぐにお金を用意できませんが、必ず弁償します。
貧しくても志はあります。まだ若いですし、絶対に返すことができます。私の名前は村田美羽です。借用書を書かせてください……」
そのとき梨花は熱を出していた。美羽にまくしたてられて頭が痛くなったので、ちょうど帰ってきた翼に対応をお願いしたのだ。
まさか、そのとき翼が美羽に個人の連絡先を教えていたなんて。
それからというもの、美羽は毎日彼に連絡しては、バイト代を送金してきたらしい。
翼は一度も返信しなかったが、彼女のほうは楽しむようにそれを続けていた。
でも、いつからか、翼もたまに【ああ】と返事をするようになった。
美羽はまるで小さな太陽のようだった。その光と熱で、翼という氷山を少しずつ溶かしていったのだ。
二人の連絡はどんどん頻繁になった。翼は美羽からの連絡に特別な通知設定をして、会議中にでさえ、彼女が送ってくる日常のメッセージに返事をしていた。
彼は美羽のために予定を変更し、時間を作っては人気のない道を一緒に散歩した。彼女が病気になれば眠らずに看病し、彼女が好きな屋台の味を求めて、わざわざ遠くまで買いに走ったりもした。
翼はこっそり美羽に高時給の仕事も紹介していた。ただ、彼女のプライドを傷つけないように、そのことは一言も伝えなかった。仕事を紹介した担当者でさえ、それが翼の頼みだとは知らなかったという。
こんなにも細やかな気遣いと、あからさまな特別扱いは、梨花が8年間ずっと求めても決して手に入れられなかったものだ。
それなのに翼は、出会ってまだ半年しか経っていない若い女の子に、いとも簡単にそれを与えていた。
梨花は全身をわなわなと震わせながら、スマホの画面に向かって、ふっと笑い声を漏らした。
笑っていたはずなのに、いつのまにか涙がぽろぽろとこぼれ落ち、音もなく画面を濡らした。
夫が無愛想で、何を考えているかわからなくてもよかった。彼が薄情で、愛というものを知らない人なのだとしても、まだ受け入れられた。
でも、自分には冷たくしておきながら、その愛情と情熱のすべてを、他の自由気ままな女に注いでいるなんて。それだけは、どうしても許せなかった。
梨花は一晩中、ただ呆然と座りこんで、探偵からの資料を何度も何度も読み返した。
夜が明けるころ、彼女は決心した。もう、ここを出ていこう、と。
梨花は、弁護士をしている唯一の親友に電話をかけた。「離婚協議書を用意してほしいの。慰謝料も財産分与も、何もいらないから」
「何もいらない、だと?」翼の声がして、病室のドアの前に彼が立っていた。
梨花の手がぴくりと震えた。慌てて電話を切って、顔をあげて翼のほうを見た。
翼は食事の容器を手に部屋へ入ってきた。その表情はいつもと何も変わらない。静かな視線を梨花の顔に向け、答えを待っているようだった。
梨花はぎゅっと拳を握りしめ、必死に平静を装って言った。「翼、あなたと離婚したいの。財産は、何もいらない」
「家のルールをまた覚え直したいのか?」翼の声は平坦で、表情もまったく変わらない。彼はただ、容器からお味噌汁をよそって梨花に差し出した。
梨花の体がかたまる。あまりに悲しくて、そして、ばかばかしくて。
翼が梨花のために作った99カ条もの「家のルール」だ。その中には、離婚という言葉を口にしてはいけない、というのがあった。
この数年間、梨花はその「家のルール」を掟のごとく守ってきた。翼や山崎家の人たちをがっかりさせたくなかったからだ。
そのルールが正しいかなんて、一度も考えたことがなかった。でも今になってみると、ただ悲しくて、笑えてくる。
自分を愛してもいない夫に、離婚を切り出す権利さえないなんて。
彼女は目を伏せ、差し出されたお味噌汁の器を受け取ろうとはしなかった。
翼は、そんな梨花の手にお味噌汁の器をむりやり握らせた。そして穏やかな目で言った。「わがままを言わないで、ちゃんと食べて」
熱い器のせいで、手のひらがじゅっと焼かれたような気がした。その痛みが、まっすぐ心臓に突き刺さる。
昔は、こういう優しさこそが愛情なのだと信じていたのに……
梨花が何か言い返そうとしたとき、翼が電話に出た。どうやら祖父の山崎剛(やまざき つよし)が、山崎家の屋敷に二人を呼んでいるらしい。
梨花は気のないままお味噌汁を二、三口だけ食べると、翼のあとについて病室を出た。
下の階に降りるエレベーターは少し混んでいた。翼は梨花と向き合うように立ち、隅にいる彼女をかばうように体を少し傾けた。
かつては愛情の証だと感じていたこの仕草も、今ならわかる。これはただ、彼の体に染みついた育ちの良さなのだ。
相手を愛しているからじゃない。翼が、誰に対してもそういうことができる、とても「良い人」だからというだけ。
胸の奥がちくりと痛んで、梨花は思わず目頭を熱くした。
エレベーターのドアが開いたとたん、梨花は翼の気配が充満するこの狭い空間から、一刻も早く逃げ出したくなった。
誰かにぐいっと押されて、彼女はよろけて倒れそうになった。
翼がとっさに梨花の腕をつかんで、ぐっと胸の中に引き寄せた。「危ない……」
彼の言葉が、ふと途切れた。その視線は梨花を通りこして、別の方向へと向けられていた。
翼の視線の先を追った梨花の目に、思いもよらない人物の姿が映った。
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