時が流れても、私は私でいられる第1話
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夏目夏希(なつめ なつき)は車の中で、夫の篠原繁人(しのはら しげと)の不倫の証拠を見つけてしまった。
相手は彼の初恋である九条未来(くじょう みらい)だった。
その瞬間から、夏希の心は、音を立てて冷えていく。彼女はひとりで中絶手術を受け、離婚を決意した。
けれど別れの日までの間、未来は何度も夏希を挑発し、繁人もまた迷うことなく未来の肩を持った。
すべてを終わらせるため、夏希が海外へと去る。そこでようやく繁人は、自分が失ったものの大切さに気づいた。
彼は夏希を自分の元へ連れ戻すと心に決めた。
* * *
私の名前は夏目夏希(なつめ なつき)。同僚がふざけて、青い貼り紙を私の車に貼り付けて、写真を撮って私に送った。
「ほら、違反切符を切られてるぞ」
それをすっかり信じてしまって、私は交通違反の照会サイトにログインし、念のため確認した。
いつの間に違反をしたのか見当もつかず、ドライブレコーダーの履歴を開いた。そこには、車内カメラが撮り落とした映像が目に飛び込んできた。
篠原繁人(しのはら しげと)の隣に、彼の初恋の女・九条未来(くじょう みらい)が助手席に座っていた。シートベルトもしていないまま身を乗り出し、繁人の頬にキスをしていた。
そして繁人は、眩しいくらいの笑顔で笑っていた。
そんな顔は、私には一度も見せたことがない。
その笑顔を呆然と見つめたまま、私はようやく分かった。
この一方通行の気持ちは、もう手放す時が来たんだって。
私は一人で車を出し、病院で中絶手術を受けた。
そして離婚協議書を整えて、離婚届の用紙と一緒に繁人の会社へ書留で送った。
時が流れても、私は私でいられる。
……
しばらくして、親友の久我甘音(くが あまね)が知らせを聞くと、すぐに駆けつけてきた。
「繁人さんとどうなってるの?彼が浮気したの?」
私は赤くなった目のまま、歪んだ笑みを浮かべた。
十年の追いかけっこが、結局はこんな結末。
それでも私は、それが幸せなんだと勘違いしていた。
けれど今日は、たった一つの映像で目が覚めた。
繁人は私と結婚しても、結局のところ最後まで不本意だったのか。
甘音は、情けない私を見るほど腹が立つみたいに顔をしかめた。
「だから前から言ってたじゃん。あの人、ろくな男じゃないって。夏希はさ、なんでいつも一人で意地張るの。
離れて正解だわ。毎回しんどいくらい追いかけて。
見てるだけで、私までムカついてたよ。
それでね。柳瀬先輩が海外のプロジェクトを持っていて、求人をしてるの。夏希は考えてみない?」
口の中が苦くなって、うまく言葉が出ない。私は小さくうなずいた。
その瞬間、抑えていた涙が勝手にこぼれた。
慌ててティッシュを探す私を見て、甘音がため息まじりに言う。
「もう我慢しなくていい。泣いていいよ」
悔しさがこみ上げてきて、止められなかった。私は甘音にしがみついて、声がかすれるまで泣いた。
私を家まで送ると、甘音はちょっと用事があると言って出ていった。
私はすぐ柳瀬恒一(やなせ こういち)先輩に電話して詳しい話を聞いた。内容的にも十分できると分かったので、その場で引き受けた。
出発は一週間後だ。
今の会社の引き継ぎは、ほとんどオンラインで片づけられる。
洗面所で身支度をしながら鏡を見ると、そこには疲れ切った顔の私がいた。
初めて自分が嫌になった。
考えがまとまらないうちに、スマホが鳴った。
「夏希。悪いけど、黒のスーツ一式を会社まで持ってきて。頼む」
繁人のやけによそよそしいほど丁寧な声を聞いて、私は反射的に「分かった」と答えてしまった。
通話が切れてから、やっと気づいた。
少し迷ったけれど、断るためにかけ直すことはしなかった。
繁人は忙しくて家に帰らないことが多い。私が直接行けば、離婚協議書も回収できる。
会社に着くと、未来がちょうど繁人の横に寄り、パソコンの画面を覗き込んでいた。
髪がふわりと揺れて、繁人の頬に触れる。
繁人はそれを当たり前みたいに指で払って、未来の耳にかけてやった。その仕草が、やさしすぎる。
私に気づくと、繁人の表情がほんの一瞬だけ凍りついた。さっきまでの柔らかさがすっと消え、無表情の顔になる。そして、責めるように言った。
「本当に遅かったな」
未来が笑って、私からスーツを受け取った。
「わざわざありがとう、夏希さん。繁人は部下のことでいらいらしてて、言い方がきついかも。気にしないでくださいね」
女主人みたいに振る舞いで、まるで私のほうが場違いな第三者みたいだった。
未来が帰国して、繁人の秘書になったばかりの頃なら、私はきっと詰め寄っていた。
けれど今の私は、ただ一つだけ確認したい。
「……書類はサインした?」
繁人は眉を少し上げたまま、未来にネクタイを整えさせている。
「サインって、何のだ?」
「繁人、行こう。もう間に合わないよ」
未来がすぐに割って入る。私と繁人の会話が増えるのが、気に入らないのが見え見えだった。
繁人は小さくうなずき、私に投げるように言う。
「用があるなら、家で話す」
二人は前後して出ていった。
最後に振り返った未来は、得意げな笑みを隠しもしなかった。
私はデスクの上や引き出しをひと通り探した。離婚協議書も、離婚届の用紙も見当たらない。
うっかりマウスに触れ、モニターが点く。
映し出されたのは、繁人と未来が手すりにもたれて海を見ている写真だ。目が合っていて、互いに大事に思っていると言わんばかりの距離だ。
それは私が一度ももらえなかった親しさ。
私はバッグを掴むと、その場から逃げるように出た。
家に帰るなり、玄関の内側にしゃがみ込んで、また涙が落ちた。
手放すって、こんなにしんどいんだ。
それでもいい。いつか少しずつ、繁人のことを心の奥から、根っこごと抜いていく。
気を紛らわせたくてショート動画を流していたら、「知り合いかも」のおすすめが出た。
飛ばすつもりが、指が滑って開いてしまう。
未来のアカウントだった。
最新の投稿は、葬儀に参列している様子だった。
添えられた言葉は――「つらい日でも、そばにいてくれてよかった」
亡くなったのは、未来の遠い親戚にすぎない。
それでも繁人は、恋人みたいに彼女の隣で振る舞っていた。
受付の対応から細かい気配りまで、全部自分がやると言わんばかりに動いている姿を見て、私は分かった。
繁人は、いつも忙しくて手が回らないわけじゃない。
ただ、私のために時間を使う気がなかっただけだ。
私たちの結婚式の日もそうだ。仕事が立て込んでるという理由で、繁人は途中でいなくなった。
式場を後にする際、彼は迷ってるみたいな視線をしていた。私はそれを罪悪感だと信じて、「気にしないで」と笑って慰めた。
今思うと、笑えるくらいばかみたいだ。きっとあの時点で、繁人はもう後悔してたんだろう。
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