春風も、君も、二度と戻らない第1話
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「枝里、霧島グループの最新医療技術を使えば、君の両親を植物状態から目覚めさせることができる。ただし——元恋人である俺に頭を下げてきた以上、一つだけ、譲れない条件がある」
「……どんな条件なの?」
胸の奥がきゅっと痛む。東雲枝里(しののめ・えり)は息をのんで問い返した。
「高峯翔真(たかみね・しょうま)と別れろ。そして、俺のもとへ戻ってこい」
低く落ち着いた声には、否応のない圧が込められていた。
「……わかった。応じるわ」
一瞬の迷いも見せず、彼女は静かにそう答えた。
* * *
「枝里、霧島グループの最新医療技術を使えば、君の両親を植物状態から目覚めさせることができる。ただし——元恋人である俺に頭を下げてきた以上、一つだけ、譲れない条件がある」
「……どんな条件なの?」
胸の奥がきゅっと痛む。東雲枝里(しののめ・えり)は息をのんで問い返した。
「高峯翔真(たかみね・しょうま)と別れろ。そして、俺のもとへ戻ってこい」
低く落ち着いた声には、否応のない圧が込められていた。
「……わかった。応じるわ」
一瞬の迷いも見せず、彼女は静かにそう答えた。
電話の向こうから、霧島淳哉(きりしま・じゅんや)のかすかな乱れた呼吸が聞こえた。沈黙ののち、低く鋭い声が落ちてくる。
「半月後に帰国する。迎えに行く……逃げるような真似をすれば、どうなるか分かってるな」
電話が切れる。枝里はスマホ画面に表示された「特別な日付」をじっと見つめていた。
その日付は、皮肉にも―彼女と翔真の結婚式当日だった。
しばしの無言のまま予定表を開き、「結婚の日」と記されたその欄を、「去る日」と書き換えた。
家に戻ると、耳をつんざくような大音量の音楽が鳴り響いていた。
玄関は半開きで、ガラス張りの壁越しにリビングの様子がはっきりと見えた。
そこには、一之瀬美羽(いちのせ・みう)は純白のウェディングドレスに身を包み、完璧なメイクを施し、ブーケを手にして翔真の前に立っていた。
唇を噛みしめ、潤んだ瞳で彼を見上げるその姿は、見る者の胸を締めつけるような切なさに満ちていた。
けれど、そのドレスは枝里のものだった。
彼女の婚約者の前で、彼女のドレスを着た美羽は、涙混じりにこう語りかけた。
「翔真さん……もうすぐ枝里さんと結婚するのは分かってる。でも、ずっと好きだったこの気持ち……少しだけ報われてもいいかな?一度だけでいいから、私と結婚して。ずっと夢見てきたこの恋に……ちゃんと終止符を打ちたいの」
場の空気がざわついた。翔真の友人たちが一斉に口をそろえる。
「翔真、美羽ちゃんの願いなんだし、ちょっとくらい付き合ってやれよ」
「そうそう、冗談の結婚ごっこだろ?一度だけならいいじゃん!」
騒がしい声が飛び交うなか、翔真はずっと視線を落としたまま、沈黙を貫いていた。
長い沈黙の末、美羽すら諦めかけたそのとき、彼は静かに口を開いた。
「……今回だけだ。二度とない」
その瞬間、美羽の顔がぱっと明るくなった。
友人たちはすぐさま結婚行進曲を流し、美羽は笑顔でドレスの裾をつまみながら歩み出し、そっと彼の手を取った。
「新郎と新婦に伺います。目の前の方と、富める時も貧しき時も、健やかなる時も病める時も、若き日も老いた日も、共に人生を歩むことを誓いますか?」
「はい、誓います!」と、美羽は頬を赤らめながら即答した。
翔真は一拍の間を置いてから、静かに応じた。
「……誓います」
歓声に包まれる中、美羽は用意していた指輪を彼の指に通し、翔真もまた彼女の指に指輪をはめた。
「さあ、最後は新郎から新婦へのキスだ!」
「キス! キス!」
盛り上がる声に包まれるなか、美羽の瞳はまっすぐな愛情で翔真を見つめていた。翔真は動けず、ただ沈黙し続けていた。
やがて美羽の目元に再び涙が滲むと、友人のひとりが茶化すように言った。
「おい翔真、枝里さんには元カレがいたんだろ?美羽にキス一回くらい、どうってことないだろ?」
翔真は少し沈黙の後、そっと美羽の唇にキスを落とした。
美羽は彼の首に腕を回し、彼もまた自然とその背中を抱き寄せ―キスは、静かに深まっていった。
その瞬間まで玄関の外に立っていた枝里は、ついに扉を押し開けた。
一瞬で、空気が凍りつく。
翔真は目を見開き、慌てて美羽を突き放し、指輪を外した。
「枝里ちゃん……違うんだ、誤解だよ。罰ゲームでさ、ただのコスプレなんだよ……本気じゃないんだ」
ただの遊び?
枝里は、苦笑すら浮かべることができなかった。
ウェディングドレスを着て、キスまで交わす「遊び」なんて、あるのだろうか?
枝里の視線は、かつての翔真に向けられていた。
かつては彼女のために、他の女性と一線を引いていた少年だった。だが今、その腕で別の誰かを抱きしめ、唇を重ねている。
枝里の初恋は、高校時代の淳哉との短い交際だった。
周囲の友人たちが恋愛を楽しむなか、自分も恋がしてみたくなって、学園一の人気者だった淳哉に思いきって告白した。
けれど、彼は冷たく、どこか距離のある人だった。付き合っていても、ときめきは一度もなかった。
たった半月で、その関係は終わった。
そして二度目の恋―それが翔真だった。
彼は彼女の人生の中で最も長く、深く刻まれた存在だった。
その美しい顔立ちゆえに、枝里の周囲には常に言い寄る男が絶えなかった。だが、誰よりもしつこく、誰よりも執念深く彼女を追いかけたのは、翔真だった。
彼は枝里のためなら、何でもした。
雑誌で彼女が目を留めたネックレスを覚えて、海を越えてサザビーズのオークションで落札してプレゼントした。
彼女が薔薇が好きだと言えば、一面の庭園を丸ごと買い取り、バラを植え尽くした。
出会った日、付き合い始めた日、付き合って一周年、二周年、三周年……
記念日は欠かさず、毎年違うサプライズを用意していた。
だが、半年前―
枝里の両親が事故に遭い、植物状態になったその日を境に、翔真の態度は変わっていった。
そして、彼は親友の妹―美羽と、距離を縮めはじめたのだ。
最初、彼はこう言った。
「兄貴分に頼まれて彼女の面倒を見てるだけさ。まだ若い子だし、少し気を配るくらい当然だろ?」
だからこそ、雷が怖くて泣き出した美羽のために真夜中に駆けつけたり、長い行列に並んでタピオカを買ってきたりした。
それだけではなく、美羽が彼に書いたラブレターを枝里が見つけ、問い詰めたときでさえ、彼は無頓着な様子で、困ったように笑って言った。
「まだ子どもなんだよ。たぶん、『好き』ってどういうことかも分かってないんだ。気にすることないさ」
そんなある日。
枝里は、霧島グループの最新医療技術によって、両親が目覚めるかもしれないと知った。
翔真が独占欲の強い人間であり、淳哉という元恋人の存在を特に気にしていることも分かっていたため、事前に話しておこうと決めていた。
だが、彼のもとを訪れたその日─
枝里が偶然目にしたのは、酔った美羽が彼に問いかける場面だった。
「翔真さん、もし最初に出会ったのが私だったら……私を選んでくれた?」
翔真は黙ったまま、何も答えなかった。
美羽は泣きながら彼の服を掴み、縋るように言った。
「枝里さんはいないのよ。少しくらい、私を慰めてくれてもいいじゃない……」
そしてしばらく沈黙のあと、彼は小さく答えた。
「……ああ、そうだな」
その瞬間、扉の外にいた枝里の身体は、氷の中に落ちたかのように冷え込んだ。
それなら、もう元恋人の件を話す必要もない。
これからは、心も身体も、彼から引き揚げよう。
脳裏に焼きついたその場面と、目の前の現実が重なっていく。
枝里は静かに微笑み、目の前の男に言い放った。
「分かったわ。二人でごゆっくりどうぞ」
そう言って、彼女は階段を上がろうと一歩を踏み出した。
その時、翔真は呆然と立ち尽くしていた。
長い時間をかけて彼女を説得する準備までしていたというのに、彼女がそんな態度を取るとは、想像もしていなかったのだ。
動揺した彼は、慌てて枝里の手を掴み、小さな声で尋ねた。
「枝里ちゃん……何か、あったのか?」
枝里はただ、静かに彼を見つめ返すだけだった。
そう、たった一つ大きな出来事があった。
彼女はもう、彼を必要としなくなった。
そして、元恋人のもとへ戻る決意をしたのだった。
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