和紙文春に別れて · 第3話設定≡

春に別れて第3話

この話は約2321字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。

彼は朝早く家を出て、夜遅くに帰るようになった。

私は彼が不在の昼間に荷物をまとめ、私たちはすれ違いの生活を続けた。

ひと通りの片付けが終わりかけた頃、突然、彼から電話がかかってきた。

画面上で揺れる名前を、私はしばらくの間、ただ見つめていた。

それでも、通話ボタンを押した。

「何?」

彼の口調は相変わらず、仕事の電話のようだった。

「服が濡れた。クローゼットの一番右にある黒いスーツを持ってきてくれ」

私は何も返事をしなかった。

ただ何となく、クローゼットへ向かい、その服に手を触れた。

ポケットの中に、硬いものが入っている。

息が止まった。

電話をつないだままのスピーカーから、洋一の低い笑い声が聞こえた。どこか気だるげな声で、彼は言った。

「気づいたか」

私はぼんやりとした頭で、それをポケットから引きずり出した。

指輪だった。

ぎゅっと握りしめると、ダイヤモンドの鋭いカットが手のひらに食い込んで痛かった。

声が、かすれる。

「あなた……」

彼は相変わらず淡々としていたが、少しだけ声を張った。

「気に入ったか?」

心臓が激しく跳ね上がった。手のひらが、じんわりと汗ばんでいく。

唇を開きかけたものの、すぐには言葉にならなかった。

胸の奥から、言葉にできない感情が止めどなく溢れ出してくる。

「なんで……っ」

しかし、先に向こうから言葉を遮られた。

「有菜に感謝しろよ。あいつのアイデアだ。あいつがお前に謝れって言うから、詫びを入れることにしたんだ。あいつの顔を潰すわけにもいかないからな」

私は、その場に縫い止められたように立ち尽くした。

まるで頭から氷水を浴びせられたみたいだった。

心が、完全に凍りついた。

手の中の指輪を見つめていると、喉が焼けるように熱くなった。

服の生地をぎゅっと掴み、激しく呼吸が乱れる。

「……そこまでして私を辱めて、一体どういうつもり!?」

長い沈黙が流れた。

やがて、電話の向こうから洋一のくぐもった低い声と、有菜の甘い吐息が混ざり合って漏れ聞こえてきた。

彼の声は、ひどく柔らかだった。

「痛かったか?俺を怖がる必要なんてないだろう」

その声音は、私に向けるものとは明らかに違っていた。濃密な情欲を帯びた声だった。

全身が小刻みに震えた。思わず目を強く閉じる。

自分でも信じられなかった。心のどこかでまだ彼に期待していた自分が、あまりにも滑稽だった。

けれど、私の知る洋一は、もともとそういう欲の薄い人だった。

しばらくして、再び受話口から彼の声がした。

「指輪も見たんだ、もう機嫌を直しただろう。何日も口もきかずに俺を避けて……薫、そんなことを続けてもお前のためにならないぞ」

少し間を置いて、彼は傲慢な響きを含ませて続けた。

「もし許してくれるなら、ベッドでの時間……あと一時間増やしてやってもいい」

私は、信じられない言葉に目を見開いた。

「洋一、何を言ってるの」

返事をしたのは、洋一ではなく有菜だった。

「社長ぉ、あの指輪で奥さんを丸め込んだら、私にくれるって言ったじゃないですかぁ。いつ持ってきてくれるんですか……裏に、私のイニシャルまで入ってるのに」

全身の毛が逆立った。

慌てて俯き、指輪の裏側を確認する。

冷たいプラチナの内側には、確かに刻まれていた。

【AT】

――有菜のイニシャルだ。

ぞっとするような鳥肌が、全身を一気に駆け巡った。

もう、感情を抑えきれなかった。

「洋一、最低!」

洋一の声が、途端に低く冷たく沈んだ。

「薫、謝りもしたし、プレゼントもやった。なにが不満なんだ。最低だと?お前がもっと抱いてくれと俺に縋りついてきた時は、最低じゃなかったのか」

目の前が真っ暗になった。

口を動かしたけれど、声が出なかった。

電話の向こうでは、有菜を優しくあやす声が聞こえ続けている。

「わかった、あれは、とりあえず先にあいつへ渡すだけだ。次はお前に、もっと大きなダイヤを買ってやるからな」

有菜が拗ねたように不満を漏らすと、彼はさらに甘く囁いた。

「俺のために頑張って働いてくれれば、何でも好きなものを与える。わかったか?」

私は力の限り、その指輪を壁に投げつけた。とめどなく涙が、頬を伝い落ちる。

「洋一!ひどすぎるわ!自分が昔言ったこと、もう忘れたの?」

結婚式の日、彼は私の頬に優しくキスをしてくれた。

そして、確かにこう言ったのだ。

「安心してくれ、薫。一生お前のそばにいるから。いつか子どもを作ろう。お前に似れば、絶対に可愛い子になる」

それなのに、今は――

声もなく震えながら、ふと気づいた。電話は、とっくに切られていたのだ。

スマホが手から滑り落ち、床に転がった。私は呼吸をすることさえ満足にできなかった。

その時、リビングの方から騒がしい物音が聞こえてきた。

私は涙を拭い、勢いよくドアを開けた。

鍵が開けっぱなしだったのか、見知らぬ業者が入り込み、壁に巨大なウェディングフォトを飾りつけているところだった。

彼らは私を見ると、愛想よく笑いながらご祝儀を催促してきた。

「おめでとうございます、末永くお幸せに!」

「旦那様に本当に愛されてますねぇ。このウェディングフォト、お金に糸目をつけずに最高のプランで撮られたんですよね」

「本当にお似合いのカップルですよ」

私はゆっくりと顔を上げた。

そして、息が完全に止まった。

写真の中で微笑む新郎は、間違いなく洋一だった。

しかし、その隣で純白のドレスを身に纏う花嫁は、私ではなかった。

私は、力なく薄く笑った。

「そうね。あの人は、不倫相手にはお金を惜しまないから」

一瞬にして、部屋が凍りつくように静まりかえった。業者たちは気まずそうに小声で謝罪した。

私は再び、洋一に電話をかけた。

「……家に、写真が飾られてるわよ。洋一、あなたはまだ、私をどこまで辱めれば気が済むのかしら?」

縦書き表示中:本文は右から左へスクロールします(← → キーでも移動できます)

第4話は公式アプリで

当サイトでの試し読みはここまでです。アプリをインストールし、下のアプリ用コードを入力すると、この作品の第4話からそのまま読み進められます。

T49966
  1. 下のボタンから公式アプリをインストールします(無料)。
  2. アプリを開き、「コードを入力」にこのコードを入れると、この作品が本棚に入ります。
iPhone・iPad
で入手
Android
で入手

アプリで第4話を読む

作品ページへ戻る 当サイトに掲載しているのは試し読みの章だけです。