日が経つほど心がわかる第2話
この話は約4069字。当サイトで読める2話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第3話からは公式アプリで読めます。
私は自嘲気味に口元を歪め、低く言った。
「行ってあげて、あなたの子どもが呼んでるわ」
彼は振り返ることもなく、慌てて去っていった。翻る衣の裾が、風となって私の顔をそっと撫でた。
私は一人暗闇の中に座り、灯りもつけず、泣きもしなかった。
わかっていた。辰紀は桜と結婚しないだろう。しかし、あの子どもたちのために何度も桜に呼ばれることを。
私はこれまでに千種類以上の香水を調香してきた。トップ、ミドル、ベース、香りの三重奏は完璧だった。
だが、私の人生には、無理やり押し込まれたような、不協和音のような安っぽい雑味が混じっていた。
離婚しなければ、どこまでこの雑味に耐えなければならないのか。もしかしたら、一生も?
慣れた鈍い痛みが胃を締めつけた。
私はソファで体を丸め、携帯電話を取り出した。
SNSには桜が一枚の写真を投稿していた。辰紀は保育器のそばで見守り、横顔はやつれて、眉間には私が今まで見たことのない不安と緊張が浮かんでいた。
彼女のキャプションにはこう書かれていた。【あなたがいるから、怖くない】
ふん。
私は弁護士に離婚協議書を作らせ、それから会社に向かった。
私が自ら立ち上げた香水ブランド「Y」は、現在ではグループで最も収益の高い子会社のひとつだ。
人事課課長は私が辞表を差し出すと、コーヒーをひっくり返しそうなほど驚いた。
「雨内社長、辞めるのですか?綾小路社長はご存じですか?」
私は淡々と笑った。
「彼は今、とても忙しいから」
彼女の目に一瞬の同情が走ったのが見て、私はわかった。きっと会社中の人が私のことを笑っているのだろう。
西郊の別荘に戻ると、ここはかつて私たちが静けさを求めて時折訪れていた場所だった。私の小さな調香室もまだあった。
荷物を片付けていると、古い『香水の歴史』の本のページから、黄ばんだメモが出てきた。
辰紀の字で、初々しくも自己主張の強い筆跡だった。
「琴里、君がいつこれを目にするか分からない。あの頃にはもう子どもが何人かいるだろうね。一人は君に似ていて、一人は俺に似ている。
愛してる、琴里。これから何が起きても、俺を置き去りにしないで」
涙が予兆もなく紙に落ち、墨が滲んだ。
胃に激痛が走り、これまでのどの痛みよりも強烈だった。視界が真っ暗になり、私は倒れた。
再び意識を取り戻したのは、携帯の着信音で起こされたときだった。
「雨内琴里!一体何を考えてるんだ!」辰紀の怒鳴りが受話器から響き、耳が痺れるほどだった。彼がフルネームで呼ぶのは滅多にない。
「桜は十分に注意を払って、犠牲をいとわずやってきた!何度言っただろ、彼女は君の地位に影響しないって!なのに、なぜあんな呪いのような悪質なメールを送るんだ!」
私は思わず笑ってしまった。
胃が痙攣するほどに。
彼は一言も私に確認せず、私の罪を決めつけた。
「言い終わったか?」私の声は静かな水面のように冷たかった。
彼は私の反応に言葉を詰まらせ、勢いが弱まった。
「来週の日曜日、子どもの百日祝いだ。必ず出席しろ。琴里、もうわがままはやめてくれ、いいか?」
「わかった」
電話を切り、窓の外に広がる満天の星を見つめ、すべてが無意味に思えた。
百日祝いの日、私は素顔で出席した。
宝石や煌びやかな服の来客に囲まれ、私は異質な幽霊のようだった。
全員が、哀れみ、好奇心、そしてざまあみろというような混ざった視線で私を見ていた。
宴会場の中央、桜は目立つ赤いドレスを着て、小鳥のように辰紀に寄り添い、笑顔は本物の妻のようだった。
辰紀の母は私を見ると眉をひそめ、急かした。
「来たなら子どもを抱きなさい、幸運にあやかるのよ」
辰紀は彼の娘を私の前に差し出し、声を低くして少し懇願するように言った。
「琴里、メールの件は追及しない。君が怒っているのは分かっている。今日が終わったら、桜を国外に行かせる。子ども……子どもも君の子にするから。君のことは分かって……」
彼は言葉を止め、複雑な目で私を見つめた。
私は彼が言いたいことを理解した。
かつて私の研究室で火災事故があり、ちょうどその時彼が私を探しに来た。私は咄嗟に彼を外へ押し出そうとして有毒ガスを吸い、将来の出産能力を傷つけてしまった。
医者によると、私は一生自分の子どもを持つのは難しいという。
彼はそのとき抱きしめ、二人だけで十分だと誓った。何も望まない、私だけでいいと。
今、彼は言う。
「こうすれば、二人にとって最善ではないか?」
私の心は、あの大火事のときのように再び焼かれ、呼吸も苦しいほど痛む。
そのとき、私の腕の中の赤ちゃんが突然激しく咳き込み、顔を真っ赤にして血の混じったミルクを吐き出した。
「赤ちゃんが大変みたい!」誰かが叫んだ。
桜は狂ったように飛びかかり、鋭い声で叫んだ。
「雨内!あなた何するつもり!?なぜ私の子どもを傷つけるの!」
「パシッ!」強い平手打ち。
辰紀の父が手を出したのだ。
私は殴られて顔を斜めに向け、目がくらくらしてぐっと倒れた。頬が焼けるように痛み、口に血の味が広がった。
辰紀は無意識に手を伸ばし、私を支えようとした。
その指先が私の腕に触れそうになった瞬間、床にいたもう一人の赤ちゃん、男の子も突然「わぁ」と声を上げ、大量の血を吐いた。
現場は完全に混乱した。
「辰紀さん!」桜が悲鳴を上げ、無理やり私たちの間に割り込んできた。「私たちの子を助けて!息子を助けて!」
辰紀の伸ばした手は空中で激しく震えた。
私ははっきり見た。彼の目にある葛藤と罪悪感が、不安と心配に少しずつ飲み込まれていくのを。
最終的に、彼はゆっくりと手を引き、振り向きながら血を吐いた男の子を抱き上げた。
病院の廊下は消毒液の匂いが強く、私は白一色の世界で浮遊する幽霊のように立っていた。
ポケットから、準備していた離婚協議書が滑り落ち、ふわりと床に落ちた。
辰紀の母は目ざとく駆け寄り、拾い上げた後、内容を確認すると、乱暴に私の顔に投げつけた。
紙の端が頬をかすめ、わずかな痛みが残った。
彼女の整った顔には毒のような嫌悪が浮かんだ。
「この悪女め!この何年間、我が綾小路家がどれだけあんたに尽くしたと思ってる?辰紀はあんたのあの香水のために何度私たちと対立したが、全部我慢したんだ!今や二人の無実の子どもさえ容赦できないのか?
離婚したいなら、さっさと出て行け!妻としての役目をちゃんと果たせてくれないなら、これ以上辰紀の足を引っ張らないで!」
私は黙って腰をかがめ、灰まみれの協議書を拾った。
NICUの扉が開き、辰紀が目を真っ赤にして出てきた。
「子どもは……助かった」
彼は私を見つめ、その目はまるで強い憎しみを抱いている敵を見るようだ。
「琴里、今回ばかりは、君は本当にやりすぎた」
私は震えながら離婚協議書を差し出した。
「私たち……終わりにしましょう」
彼の瞳孔が急に縮まり、じっと私を見つめた。
「本当に?」
「もう疲れた」私は涙をこらえながら言った。「このままいたら、何をしてしまうかわからない……」
「ああ!じゃそうしよう!」彼は協議書を奪い、ポケットからペンを取り出し、自分の名前を力強く署名し、ペンを床に叩きつけ、二つに折った。
「琴里、これで君の望み通りだ!」
……
私はかつて辰紀との住まい、「世紀の家」と呼ばれる最上階のマンションに戻った。
長年世話してくれた田中さんが慌てて駆け寄った。
「奥様!お顔が……」
私は周囲を見渡した。
リビングで最も愛したアンティークの香水オルガンは消え、壁の大きなウェディングフォトも消え、玄関棚にある世界各地から集めた限定香水の瓶も消えていた。
この家は、私の痕跡がすべて消されていた。
田中さんは手をこすりながら、口ごもった。
「速水さんが胎児を安定させるためにこちらに住むようになって、香水の匂いで気分が悪くなると言ったので、旦那様が……すべて倉庫にしまうように……」
玄関ドアが開いた。
辰紀が桜を連れて入ってきた。
桜は彼に寄り添い、私を見ると、ちょうどいい驚きの表情を浮かべた。
「雨内さん、どうしていらしたのですか?」
その口調は、まるで自分がこの家の女主人のようだった。
「私の物は?」私は震える声で辰紀を見つめた。
辰紀は冷笑し、桜をさらに自分の腕に抱き寄せた。
「もう離婚するのに、そんなこと気にするのか」
桜は作り笑いを浮かべながら近づき、私の手を取ろうとした。
「雨内さん、辰紀さんを責めないでください。私、妊娠で体が弱く、貴重なものにぶつってしまうのが怖くて……」
「触らないで!」私は火傷でもしたかのように、彼女の手を払った。
桜は「あっ!」と声を上げ、柔弱に後ろに倒れた。
辰紀は素早く彼女を抱き込み、慌てて確認した。
「大丈夫か?体のどこかが痛いか?」
私は二人の密着する様子を見て、胃が逆流するような感覚に襲われた。
振り返らず、そのまま立ち去った。
背後から怒気混じりの声が響く。
「琴里!待ちなさい!」
私は振り向かなかった。
今の自分の惨めな姿を見せたくなかった。
外はいつの間にか大雨が降り、私は魂のない操り人形のように街をさまよった。
雨は顔の涙を洗い、骨の髄まで冷たく刺すようだ。
どれほど歩いたかわからない。暗い裏路地で数人の不良に囲まれた。
「おお、雨内さんじゃないか?」顔に傷がある男が淫らに笑い近づいてきた。
「金をもらってるんだよ、お前のこと、存分に世話してやれってさ」
彼は近づき、強く嗅いだ。
「いい匂いしてんな。元名家の落ちぶれ妻はやっぱり違う」
私は反射的に携帯を取り出し、慣れた番号をダイヤルした。
電話はすぐに繋がった。
聞こえてきたのは辰紀の優しく甘い声。「大丈夫、怖がらないで、ただの悪夢よ、眠りなさい」
桜に言っているんだ。
「辰紀!助けて……」
「琴里、今はそんな遊びをする気分じゃない」
電話は無情に切られた。
再びかけても、冷たい電源オフの案内音声だけが流れた。
冷たい雨と絶望の涙が口元に入り、苦く塩辛かった。
「叫べ、喉が裂けるまで叫べ、ここには誰も来ない!」
やつらの汚い手が私のコートの襟に触れ、粗い指先が鎖骨を擦った。
私は目を閉じ、爪が手のひらに食い込ませ、冷たさを感じた。
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