手放した愛は、二度と還らない第1話
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誕生日の夜、同僚の代わりに夜勤を引き受けた雪平澪(ゆきひら みお)は、黄体破裂を起こした若い女性の診察に当たっていた。
「激しい行為が原因ですね。パートナーの方は?」
澪が顔を上げると、そこには動揺を隠せない夫、帝都の有力一族の跡取りである九条颯太(くじょう そうた)の姿があった。
数分前、彼は電話で「お前の誕生日を一緒に祝えなくて残念だ」と惜しんでいたはずだった。それが次の瞬間には、別の女の黄体を破裂させて目の前に現れるとは。
これ以上皮肉な誕生日プレゼントがあるだろうか。
廊下では、颯太の友人たちが顔を見合わせ、ひそひそと騒ぎ立てていた。
「おい、まさか奥さんが夜勤だったなんてな」
「終わったな。颯太のやつ、今回はやりすぎだ」
「雪平先生」
看護師が憤慨した様子で言った。
「主任に連絡しましょうか。先生は他のシフトもありますし、この患者は別の医師に任せればいいですよ」
澪は手袋を脱ぎ、その動作は驚くほど落ち着いていた。
「いいえ、手術室の準備を。私が執刀するわ」
* * *
誕生日の夜、同僚の代わりに夜勤を引き受けた雪平澪(ゆきひら みお)は、黄体破裂を起こした若い女性の診察に当たっていた。
「激しい行為が原因ですね。パートナーの方は?」
澪が顔を上げると、そこには動揺を隠せない夫、帝都の有力一族の跡取りである九条颯太(くじょう そうた)の姿があった。
数分前、彼は電話で「お前の誕生日を一緒に祝えなくて残念だ」と惜しんでいたはずだった。それが次の瞬間には、別の女の黄体を破裂させて目の前に現れるとは。
これ以上皮肉な誕生日プレゼントがあるだろうか。
廊下では、颯太の友人たちが顔を見合わせ、ひそひそと騒ぎ立てていた。
「おい、まさか奥さんが夜勤だったなんてな」
「終わったな。颯太のやつ、今回はやりすぎだ」
「雪平先生」看護師が憤慨した様子で言った。「主任に連絡しましょうか。先生は他のシフトもありますし、この患者は別の医師に任せればいいですよ」
澪は手袋を脱ぎ、その動作は驚くほど落ち着いていた。「いいえ、手術室の準備を。私が執刀するわ」
外が静まり返ったのも束の間、さらに大きな議論が巻き起こった。
「マジかよ?奥さん、颯太の『女友達』である彼女のことが一番嫌いだったよな?現場を押さえたのに手を出さないのか?」
「前、神崎瑠奈(かんざき るな)がビキニで颯太と泳ごうとした時、奥さんはその場で彼女の水着を剥ぎ取ってネットに晒したんだぞ!」
「それだけじゃない。先月、二人がプライベートジェットで紙ナプキンを口で奪い合うゲームをした時だって、数十億円もする機体を奥さんは迷わず叩き壊したんだ」
「異常すぎる。まさか手術中に瑠奈を始末して、颯太を独り占めしようとしてるんじゃ……?」
周囲の驚愕の声の中、颯太は苛立った様子でネクタイを緩め、伏せられた澪の瞳をじっと見つめていた。
しかし、その瞳には、さざ波一つ立っていなかった。
彼女はただ淡々と彼に命じた。「家族は手術室の外で待っていて」
周囲の誰もが信じられないという眼差しを彼女に向けていた。
そう、彼らの目には、澪は愛ゆえに狂い、手段を選ばない女として映っていたのだ。
これまでの二十八年間、九条家こそが彼女の唯一の拠り所だったからだ。
だが今、彼女にそれはもう必要なかった。
手術は滞りなく終わった。
午前三時四十分、澪は手術室から出てくると、マスクを外した。その顔は極めて静かだった。
廊下の突き当たりに立っていた颯太は、予見していた嵐を待つかのように表情を強張らせていた。
しかし、澪は彼の前を素通りしようとして、抑揚のない声で言った。「手術は成功したわ。一ヶ月は行為を控えること。次からは力加減に気をつけて」
言い終えて立ち去ろうとした瞬間、手首を強く掴まれた。
颯太の力は強く、骨が軋むほどだった。彼の瞳の奥には、彼女には理解しがたい感情が渦巻いていた。
「澪」彼は声を押し殺し、言葉を絞り出した。「その反応は何だ?少しも腹が立たないのか?」
彼は彼女が泣き叫び、いつものように目を真っ赤にして自分を問い詰めると思っていたのだ。
「もう不倫はやめて」「あの女友達と縁を切って」と縋り付いてくることを。
そんな澪こそが、彼の知っている彼女だった。
澪は視線を上げ、静かに手を振り払った。「これこそ、あなたがずっと望んでいたことでしょう?騒がず、物分かりの良い妻。私はそれを実行しただけ。不満かしら?」
颯太は言葉に詰まり、喉を鳴らした。
氷のように冷ややかな瞳を見つめ、彼は不意に冷笑を浮かべた。「いいだろう。いつまでその余裕を気取れるか見ものだな」
彼はわざと顔を近づけ、挑発的な吐息を耳元に吹きかけた。「だが、医者としての腕はベッドの上より何千倍もマシだったぞ。また彼女の具合が悪くなったら、お前に頼むことにするよ」
その時、麻酔から覚めきらない瑠奈がストレッチャーで運ばれてきた。弱々しく声を漏らす。「颯太さん……」
颯太は即座に背を向け、大股で彼女のもとへ駆け寄った。その手を握りしめ、耳障りなほど優しい声で言った。「痛むか?俺はここにいるぞ」
澪はその光景を静かに見届け、医局へと歩き出した。
ドアを閉めると、彼女はポケットから携帯電話を取り出し、長い間保存していながら一度もかけたことのない番号へダイヤルした。
「もしもし、澪よ」自分の声が恐ろしいほど冷静なのが分かった。「一ヶ月以内に、九条颯太との離婚手続きを済ませてほしいの。それが終わったら、私は一之瀬家に戻るわ」
一ヶ月前、彼女の実の父親を名乗る男が現れ、DNA鑑定の結果を持ってきた。
彼女は帝都最大の門閥、一之瀬家の令嬢であり、二歳の時に仇敵に拉致された真の令嬢だったのだ。
一之瀬家はようやく彼女を見つけ出し、戻ってくるよう懇願した。
その時、澪は断った。
二十八年も遅すぎた家族への恨みもあったが、何より――颯太にまだ期待を抱いていたからだ。
電話の向こうで、一之瀬瑛大(いちのせ えいた)は絶句し、やがて恐る恐る尋ねた。「澪……お前は、九条の小僧を命よりも愛していたのではなかったのか?なぜ急に離婚を?」
澪は窓の外で激しさを増す雪を見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「昔、私が施設にいた頃、学費を支援してくれたのは九条家だった。その後、颯太が瑠奈のために暴走運転をして事故を起こし、麻痺状態でベッドから起き上がれなくなった。医者は二度と立てないと言ったけれど、私は九条家への恩を返すために、先代の願いを聞き入れて彼と結婚した。二年間、付きっきりで世話をして、彼は再び歩けるようになった」
澪は目を閉じ、颯太が回復した日の眩しい日差しを思い出した。
彼は子供のように彼女を抱きしめて泣き、耳元でこう囁いたのだ。「澪、一生お前だけを愛する」
それからしばらくの間、彼は確かに放蕩な性格を改めていた。
毎日彼女の退勤を待ち、不器用ながら料理を学び、夜は二人で退屈なドラマを見る。
その愛は穏やかで確かなものに思え、自分はついに光を掴んだのだと信じていた。
しかし、半年も経たないうちに、瑠奈からの一本の電話で、彼はまた元の友人たちの輪へと戻っていった。
瑠奈は彼の寵愛を盾に、何度も澪の逆鱗に触れた。
深夜にパジャマ姿でリビングに現れ、彼の歯ブラシを使い、彼のワイシャツの襟元に口紅の跡を残す。
彼は一度たりとも、澪のために自分を変えることはなかった。
ただの一度も。
澪は目を開いた。瞳の奥に残っていた最後の温もりが消え去った。「恩はもう返し終わったわ。私はもう、誰にも借りはない」
電話の向こうで、瑛大は泣き出しそうなほど喜んだ。「分かった。よく言った、我が娘よ!安心しなさい。一ヶ月以内に、お父さんが必ずお前を自由にしてやる!」
電話を切ると、再び着信があった。颯太からメッセージだ。
【院長と話して、お前の退職手続きを済ませておいた】
【物分かりが良くなったついでに、瑠奈を家で看病しろ。決まりだ】
澪はその文字をしばらく見つめ、一言だけ返信した。
【分かったわ】
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