愛人親子のために実娘を殺しかけた夫第1話
この話は約2474字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。
夫の高城智哉(たかぎ ともや)は浮気相手と喧嘩するたび、決まって私のもとへ戻ってきては愚痴をこぼした。
「お前が彼女に土下座して謝れば済む話だろ。お前が娘を連れてあいつの前をうろついたせいで、機嫌を損ねたんだから」
彼は笑みを浮かべ、冗談めかした口調でそう言った。
けれど、それが本気だと知っているのは私だけだった。
以前、私が謝るのを拒んだとき、彼は私の猫を捨て、母の治療費も打ち切った。
私は何度も耐えた。娘に欠けることのない家庭を与えたいと、ただそれだけを願っていたから。
けれど昨日、彼はわざと娘にアレルゲンを口にさせ、娘は私の腕の中で意識を失った。その瞬間、私は完全に心が冷えきった。
智哉は、黙り込む私を見て、私が嫌がっているのだと思った。
叱りつけようと口を開きかけた彼に、私はそのまま離婚協議書を差し出し、静かに言った。
「土下座なら、彼女ももう見飽きているでしょう。私たちが離婚したほうが、きっともっと喜ぶわ」
智哉は意外そうに眉を上げたが、その目には得意げな色が浮かんでいた。
「ずいぶん聞き分けがよくなったな。自分から俺を喜ばせる方法まで考えるなんて」
私は言い返さなかった。
ただ、いっそう思いやりのある笑みを浮かべただけだった。
私だけが知っている。自分は彼を喜ばせたいのではない。
本当に、もう彼をいらないと思っているのだ。
* * *
夫の高城智哉(たかぎ ともや)は浮気相手の藤崎朱音(ふじさき あかね)と喧嘩するたび、決まって私のもとへ戻ってきては愚痴をこぼした。
「お前が彼女に土下座して謝れば済む話だろ。お前が娘を連れてあいつの前をうろついたせいで、機嫌を損ねたんだから」
彼は笑みを浮かべ、冗談めかした口調でそう言った。
けれど、それが本気だと知っているのは私だけだった。
以前、私が謝るのを拒んだとき、彼は私の猫を捨て、母の治療費も打ち切った。
私は何度も耐えた。娘に欠けることのない家庭を与えたいと、ただそれだけを願っていたから。
けれど昨日、彼はわざと娘にアレルゲンを口にさせ、娘は私の腕の中で意識を失った。その瞬間、私は完全に心が冷えきった。
智哉は、黙り込む私を見て、私が嫌がっているのだと思った。
叱りつけようと口を開きかけた彼に、私はそのまま離婚協議書を差し出し、静かに言った。
「土下座なら、彼女ももう見飽きているでしょう。私たちが離婚したほうが、きっともっと喜ぶわ」
智哉は意外そうに眉を上げたが、その目には得意げな色が浮かんでいた。
「ずいぶん聞き分けがよくなったな。自分から俺を喜ばせる方法まで考えるなんて」
私は言い返さなかった。
ただ、いっそう思いやりのある笑みを浮かべただけだった。
私だけが知っている。自分は彼を喜ばせたいのではない。
本当に、もう彼をいらないと思っているのだ。
……
「安心しろ。朱音の気が済んだら、すぐにまた籍を入れてやる」
智哉はそう言いながら署名した。
私がいつまでも自分を愛していると信じきっているからか、離婚協議書には目も通そうとしなかった。
だが、係員から離婚届の受理証明書を手渡された瞬間、彼は珍しく一瞬だけ動きを止めた。何か言おうとしてこちらを振り向きかけたそのとき、朱音が興奮したように彼の胸へ飛び込んだ。
「智哉、私のために本当に離婚してくれたのね!大好き」
そう言うと、頬を染めて唇を寄せた。
係員たちは顔を見合わせ、そろって気の毒そうな目を私に向けた。
離婚したその日に、元夫が役所の前で浮気相手と人目もはばからず抱き合っている。ここまで惨めな妻も、そうはいないだろう。
私は静かに視線を引き、扉を押して外へ出た。
そのとき、不意に空いっぱいに無数の花火が咲き広がり、背後から、智哉の優しく甘い声がゆっくりと響いた。
「朱音、君のために特注したんだ。花火が上がったら、名前が出るようになってる」
私はその場に立ち尽くした。結婚したころ、私もそんなふうに夢見たことがあった。
けれどあの頃の智哉は、ちょうど仕事を立ち上げたばかりで、資金にも余裕がなかったため、困らせたくなく、私は安い花火で我慢した。
粗末で目に痛いだけの光を見上げながら、それでも私は幸せそうに笑っていた。
すると智哉は目を潤ませ、私を抱き寄せてこう約束した。
「汐里(しおり)、お前にしてやれなかったことは、必ず埋め合わせる。いつか空いっぱいにお前の名前を書いてみせる」
その後、彼は数えきれないほどの金を手にした。
けれど、あのときの約束だけは、最初からなかったかのように消えてしまった。
今、目の前の花火を見て、ようやくわかった。愛が消えたわけじゃなかった。
ただ、別の誰かのもとへ移っただけだったのだ。
「ママ!」
その声に、私は思い出から引き戻された。
佳奈が世話係の手を離し、子犬のような勢いで駆け寄ってきて、そのまま私の胸に飛び込んだ。
今日は佳奈の誕生日だった。私と智哉は、一緒に遊園地へ連れて行くと約束していた。
私は智哉を振り返った。
けれど娘の姿を見た瞬間、彼はその場で固まってしまった。
また忘れていたのだと、すぐにわかった。もう何度目かも思い出せない。
智哉が娘の誕生日を忘れたときも、授業参観を忘れたときも、私はいつも周囲にこう言ってきた。
「佳奈の父親は、忙しくて。出張中なんです」
そのすぐあとで、テレビには朱音を連れてフランスの街を歩く彼の姿が映っていた。
結婚して六年。私はとっくに、何度も顔をつぶされてきた。
親戚や友人たちが私を見る目にも、同情がにじむようになっていた。それでも私は構わなかった。
けれど娘が、ほかの子どもたちに「片親の子」「私生児」と罵られ、泣き崩れながら私の胸にすがりついたあのとき、もう自分をごまかすことはできなかった。
私にも娘にも、智哉は何の愛情も持っていない。
それでも今回は、娘のためにもう一度だけ求めてみようと思った。
だが、私が口を開くより先に、智哉の車の中から、娘と同じくらいの年頃の女の子が降りてきた。
朱音とその前の夫の娘だった。
朱音は気まずそうに微笑みながら言った。
「汐里さん、智哉がどうしても一緒に来いって言うから。お邪魔だったかしら」
縦書き表示中:本文は右から左へスクロールします(← → キーでも移動できます)