愛は跡形もなく消えゆく第3話
この話は約1788字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
あの夜、彼女は隼人と背中合わせに横になっていた。どちらも、先に口を開くことはなかった。
お腹が大きくなりすぎて、彼女は常に息苦しさを感じていた。
苦しくて体を翻すと、隼人に酸素ボンベを取ってもらおうとした。時々、酸素を吸わないと本当に息が詰まりそうになるのだ。
身を返したそのとき、彼女は隼人がベッドのヘッドボードに寄りかかりながら、スマホをいじっているのを見た。相手は美緒だった。
文字を打ち合う二人のやりとりはとても楽しそうで、隼人の口元に浮かぶ笑みが、綾乃の胸を鋭く刺した。
何を話していたのか、ふと隼人がスマホから目を離し、彼女を一瞥した。
綾乃はすぐに目を閉じた。すると隼人は寝室の電気を消して、立ち上がり部屋を出ていった。
彼は綾乃が目が見えないから、何も分からないと思っているのだ。だから、あんなにも無遠慮に――
隼人が去ったあと、綾乃も立ち上がり、そっと彼のあとを追った。
美緒の部屋のドアは少し開いていた。
外から覗いた綾乃の目に映ったのは、隼人が美緒のお腹に妊娠オイルを塗ってやっている姿だった。
彼は真剣な顔で、丁寧にオイルを塗っていた。すると、突然美緒が身体を起こし、隼人の唇にキスをした。
隼人は彼女の手を掴み、荒い息を吐いた。
「美緒、ダメだよ。君には赤ちゃんがいるんだ」
「大丈夫よ、隼人。先生も言ってたわ、妊娠後期なら気をつければ問題ないって」
そう言って、美緒は自分のパジャマの肩紐を引き下ろした。
「隼人、私のこと欲しくないの?私、海外に行った五年間、毎日あなたのことばかり考えてたのよ。思い出して、何度も泣いた……あの夜、家出してこっそり帰国しようとしなければ、あんなことには……」
言いながら泣き出す美緒の目元に、隼人はそっとキスを落とした。
「もういいよ、美緒。ごめん。俺がちゃんと償うから」
燃え上がる情欲に抗えず、二人はそのまま絡み合った。
その光景を目の当たりにした綾乃は、口元を手で押さえ、指の隙間から涙が溢れ出した。
十五年も愛してきた人、五年も連れ添った夫が――自分が妊娠八ヶ月のこの時期に、他の妊婦と関係を持つなんて。
信じられず、綾乃は首を振って後ずさった。そのとき、足元にあった植木鉢にぶつかった。
ガタンという音に、ベッドの上の隼人が動きを止めた。
「今の音、何だ?」
「何を怖がってるの?綾乃だと思ってる?忘れたの?彼女、目が見えないのよ。もしここに来ても、私たちのことなんて分かるはずないじゃない」
「でも……」
隼人は小さく頷きながら、真っ暗なドアの方を一瞥した。胸の奥に、奇妙な違和感が残る。
綾乃は見えない。でも、聞こえる。
もし聞かれていたら、彼女は……悲しむだろうか?
「隼人、何を考えてるの?」
美緒が彼の顔を無理やり自分の方へ向けさせた。
「綾乃のことなんて考えちゃダメ」
美緒は顔を上げ、再びキスをした。
隼人も、自分がどうかしてると感じていた。こんな時に、綾乃のことを思い出すなんて――
あの夜、自分が彼女を抱くことになったのは、彼女の策略だった。あれがなければ、子どもなんてできなかったのに。
あの夜、綾乃はどうやって部屋に戻ったのか覚えていなかった。
お腹が痛くてたまらず、手探りで薬を見つけて一錠飲むと、ようやく少し楽になった。
もう決めている。子どもが生まれたら、すぐにこの家を出ていく。
隼人には、もう未練なんて一つもない。
今はただ、お腹の中の子が無事に生まれてくれることだけを願っている。
離婚する時、何もいらない。ただ、この子だけを守りたい。
翌朝、綾乃は早く起きて階下に降り、朝食を取りに行った。
使用人は、もともと綾乃のために用意されていたフカヒレスープを美緒の席に置いた。
そして代わりに、綾乃には普通のスープを出してきた。
彼らは、綾乃が目が見えないから、味の違いにも気づかないと思っているのだ。
綾乃は何も言わず、数口だけ食べて箸を置いた。
「おはよう、綾乃さん。こんなに早起きなんてすごいね」
美緒が階段を降りてきて、綾乃の隣に座った。
わざとらしく挑発するように、彼女は言った。
「私は綾乃さんほど早起きは得意じゃないのよ。昨夜は一晩中大変だったから、体がバラバラになった感じて、起きるのに一苦労したわ」
綾乃の目には、彼女の首筋に浮かぶ赤い痕がすぐに映った。いくつも並び、明らかに異様な数だった。
その痕跡を見るだけで、昨夜の彼らがどれほど激しかったかが分かった。
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