愛は沈み、霧だけが晴れ渡る第3話
この話は約2397字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
詩織が帰宅した時、手の甲の火傷はひどい水膨れになっていた。その魂が抜けたような様子を見て、家政婦の佐藤は驚いた。
「詩織先生、どうされたんですか!?手がこんなに……すぐに病院へ行って処置しないと。旦那様に電話します!」佐藤は言うが早いか、電話へ向かおうとした。
「佐藤さん、やめて」詩織は彼女の言葉を遮った。「電話しないで。ただの火傷だから、薬を塗れば大丈夫」
「……旦那様に心配をかけたくないんですね?お気持ちは分かります。旦那様は普段、半年に一度しか帰ってこられないのに、今回は先生が風邪だと聞いて二ヶ月で戻ってきてくださったんですものね。こんな火傷を見たら、きっと心を痛められますよ」
佐藤は薬箱を持ってくると、丁寧に軟膏を塗り始めた。「私が強く塗りすぎてませんか?痛くないですか?」
誰もが、宗一郎は詩織を深く愛していると思っている。だが彼らは知らないのだ。宗一郎の愛は、詩織だけに向けられたものではなく、もう一人の女にも注がれていたことを。
詩織はもう片方の手で頬に触れた。いつの間にか涙が伝っていたことに気づき、慌てて拭うと、無理やり笑顔を作った。「ありがとう、佐藤さん。痛くないわ」
佐藤が帰った後、詩織は荷造りを始めた。そこで彼女は気づいた。この家には、夫である宗一郎の痕跡が哀れなほど少ないことに。
結婚してからの数年間、彼が家にいる時間はあまりにも短かった。クローゼットに残された数着の服と、鏡台に飾られたツーショット写真。それ以外には、何もなかった。
すべてに予兆はあったのだ。自分が愚かで、彼を信じすぎていたから、長年その事実に気づかずにいただけだった。
その晩、宗一郎は帰ってこなかった。詩織はベッドで寝返りを打ち続け、空が白む頃になってようやく眠りに落ちた。
翌朝、詩織はリビングからの物音で目を覚ました。佐藤が来たのかと思ったが、そこにいたのは予想だにしない人物――美月と、その息子の翼だった。
翼は椅子の上によじ登り、棚の上に置いてあった木彫りの汽車に手を伸ばしていた。それは詩織にとって最も大切な宝物であり、亡き両親が残してくれた唯一の遺品だった。
「触らないで!」詩織は大声で叫んだ。
翼はびくりと体を震わせたが、手にした木彫りの汽車を離そうとはしない。美月が彼を抱きかかえ、床に降ろした。
「詩織先生、おはようございます。私と翼、しばらくこちらに居候させてもらうことになりました」美月は口元だけで笑っていた。その目は全く笑っていない。
詩織は彼女を無視し、翼の前に歩み寄った。「それを返しなさい」
翼は詩織を睨みつけると、木彫りの汽車を背中に隠し、顎を突き上げて言った。「やだ!僕が見つけたんだから、僕のものだ!」
「詩織先生、子供相手に本気にならないでくださいよ。ただの木のおもちゃじゃないですか。翼が興味を持っただけです。もし宗一郎さんがここにいたら、きっと翼にあげたはずですよ。だって翼は宗一郎さんの息子なんですから……もうご存じなんでしょう?」
詩織は冷ややかな目で美月を一瞥すると、彼女の言葉には取り合わず、翼の手から木彫りの汽車を取り返そうと手を伸ばした。それを見た美月が動いた。
「あら、本当にご存じだったのですね。知っていてまだ宗一郎さんにしがみつくなんて……彼の心の中で誰が一番大事なのか、教えてあげますね」そう囁くと、美月はいきなり翼の背中を強く突き飛ばした。
ドサッ。翼が床に倒れ込み、ワァーッと大声で泣き出した。
「何事だ?」タイミングを見計らったかのように、宗一郎がボストンバッグを手に玄関に現れた。床に座り込んで泣きじゃくる翼を見るなり、彼は大股で近づき、息子を抱き上げた。
「宗一郎さん、詩織先生を責めないで!私がいけないの、翼へのしつけが悪かったから……人の物を見るとすぐに欲しがるような卑しい子になってしまって、全部私のせいです」美月は翼の手から木彫りの汽車をもぎ取った。
「詩織先生、この子はまだ小さくて分別がないんです。これはお返しします」
詩織はただ、両親の形見を取り戻したかっただけだ。美月の芝居がかった台詞など耳に入っていなかった。彼女が手を伸ばして受け取ろうとした、その瞬間。美月は詩織の手が触れるより早く、パッと指を離した。
ガシャン!木彫りの汽車は床に叩きつけられ、無惨にもバラバラに砕け散った。
ああ……それは、両親が残してくれた、たった一つの思い出だったのに。
詩織は胸をえぐられるような思いで、床に散らばった木彫りの汽車を拾い集めた。もう二度と、元の形には戻らない。
「たかが木切れ一つで、よくもこんな小さな子供に手を出せたな」頭上から、宗一郎の冷たい声が降ってきた。
詩織は立ち上がり、宗一郎の目を真っ直ぐに見据えた。「たかが木切れ?他の人は知らなくても、あなただけは知っているはずでしょう!これは私の両親の遺品よ!」
宗一郎の表情が凍りついた。すかさず美月が彼にすがりつき、今にも泣き出しそうな声で言った。「ごめんなさい、私、そんなに大切なものだなんて知らなくて……全部私と翼が悪いの。来るべきじゃなかったんです。宗一郎さん、詩織先生を怒らせないで。私たち、出て行くから」
彼女が出て行こうとする素振りを見せると、宗一郎はすぐに彼女を引き留めた。彼は声を落とし、少しばかりの罪悪感を滲ませた目で詩織を見た。
「翼が病気なんだ。数日だけ、二人がここに泊まるのを許してくれ……その汽車なら壊れてしまったんだ、俺が新しく作ってやる。それでいいだろう?」
詩織は呆れて乾いた笑いが漏れそうになった。鼻の奥がツンと痛み、熱いものが込み上げてくる。
「ええ、いいわよ。好きなだけ泊めればいいわ。どうせ私は、もうすぐ出て行くんだから」
彼女は壊れた汽車の欠片を袋に大切にしまうと、背を向けて歩き出した。その時、宗一郎が強い力で詩織の手首を掴んだ。「出て行く?……どこへ行くつもりだ」
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