愛は二度と振り返らない第1話
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「私、星市に行って先生の下で医学を学ぶことに決めました」
佐藤奈々の言葉が終わるか終わらないかのうちに、受話器の向こうから鈴木教授の年老いた、しかし喜びに満ちた声が聞こえた。
「奈々はあのバカのことを諦められたのかい?」
奈々はひそかにスカートの裾を固く握りしめ、言葉を発する前から苦い思いが込み上げてきた。
「諦めるも何も、その頃には彼のことなんてすっかり忘れているでしょうから」
風が奈々の呟きをかき消し、鈴木教授ははっきり聞き取れなかった。
「何だって?何を忘れるって?」
「いえ、何でもありません。では、仕事に戻ります。月末に星市でお会いしましょう」
電話を切った後、奈々は目の前にある東洋医学クリニックを見上げた。
美しいアーモンド形の目には、隠しきれない緊張と不安が宿っていた。
* * *
「私、星市に行って先生の下で医学を学ぶことに決めました」
佐藤奈々(さとう なな)の言葉が終わるか終わらないかのうちに、受話器の向こうから鈴木(すずき)教授の年老いた、しかし喜びに満ちた声が聞こえた。
「奈々はあのバカのことを諦められたのかい?」
奈々はひそかにスカートの裾を固く握りしめ、言葉を発する前から苦い思いが込み上げてきた。
「諦めるも何も、その頃には彼のことなんてすっかり忘れているでしょうから」
風が奈々の呟きをかき消し、鈴木教授ははっきり聞き取れなかった。
「何だって?何を忘れるって?」
「いえ、何でもありません。では、仕事に戻ります。月末に星市でお会いしましょう」
電話を切った後、奈々は目の前にある東洋医学クリニックを見上げた。
美しいアーモンド形の目には、隠しきれない緊張と不安が宿っていた。
他人の研究のためにモルモット代わりに鍼を打たれるのは、終わりのない苦痛だ。
今日の実験が終わるまでにあと何本の鍼を打たれるのか。
そして治験が成功するまで、あと何日この痛みに耐えなければならないのか。
彼女には見当もつかなかった。
しかし、夫である高橋颯人(たかはし はやと)の夢と仕事のためなら、奈々は歯を食いしばって耐え忍ぶ覚悟だった。
彼女は深呼吸をして、東洋医学クリニックの扉を押し開け、忙しそうに立ち働く颯人の姿に見入った。
彼は清潔感のある涼やかな顔立ちで、白衣を纏うと、まるで人々を救う神々しい光を放っているようだった。
同じく白衣を着た松本時宗(まつもと ときむね)が慌ただしく颯人のそばに寄ってきた。
「先輩、また奥さんに鍼治療の治験をお願いしたんですか?」
颯人は薬の調合に忙しく、顔も上げずに答えた。
「ああ。何か?」
時宗は心配そうな顔で、長椅子におとなしく座って待っている奈々をちらりと見て言った。
「この前の鍼治療の治験の後、奥さんの記憶が少し混乱しているように感じます。
今の治療計画はまだ不完全で、予期せぬ副作用があるかもしれません。
先輩、最新の研究結果が出るまで待って、奥さんへの治験は一時中断したほうが……」
時宗の声は小さかったが、一言一言がはっきりと耳に届いた。
奈々は思わずバッグのストラップを握りしめ、緊張した面持ちで颯人を見つめた。
実のところ、最初の実験の時から、彼女には記憶障害が現れていた。
時折、自分がなぜここにいるのか、何をしに来たのかを忘れてしまうことがあった。
過去の大切な記憶さえも、ふいに曖昧になってしまうのだ。
だが、颯人が止めない限り、彼女は歯を食いしばって耐え続けるしかなかった。
「俺たちが待てても、詩織(しおり)は待てるのか?何千何万もの脳腫瘍患者が待てると思うのか?」
颯人の言葉は突然途切れ、ふと奈々に目をやった。
「お茶を淹れてきてくれ」
彼女から熱いお茶を受け取ると、颯人は一口だけすすり、皮肉げに言った。
「俺が一番摘みの宇治茶を好むことを覚えているだけじゃなく、俺の好みどおり茶葉五グラム、七十度のお湯で淹れるなんてな」
言い終えると、彼は振り返って時宗を一瞥し、冷ややかに言い放った。
「これのどこが記憶障害だと?所詮人目を引くための演技に過ぎない。俺は東洋医学クリニックの後継者だ。
奈々に医学への献身という覚悟すらないなら、俺の妻を名乗るな」
颯人の冷たい言葉は、鋭い棘のように奈々の心臓に突き刺さり、血が滲むほどの痛みを与えた。
「こっちに来い」
彼は彼女に向かって軽く顎をしゃくった。
奈々は心の痛みを懸命にこらえ、不安な気持ちで診察台に横たわった。
彼が銀鍼を手に取り、頭頂部や顔の皮膚に次々と刺していくのを、ただ身を委ねるしかなかった。
皮膚を貫く鋭い痛みの後、経穴のじんじんとした感覚が、脳の神経まで刺激した。
突然、颯人は手を止め、奈々が下腹部の上で固く組んでいた両手に、自分の手のひらを重ねた。
その温もりに、奈々の心は一瞬和らいだ。
しかし次の瞬間、痛みと緊張で震えながら強く握りしめていた奈々の十本の指が、颯人によって一本一本、力ずくで無理やり引き離されていった。
「力を抜け。そんなにこわばっていたら、どうやって鍼を打つんだ?」
彼のいつもの冷静な瞳には、嘲りの色が浮かんでいるようだった。
「毎日大勢の患者を診て鍼を打っているが、お前みたいに大げさな奴は一人もいないぞ」
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