愛の終わり、帰る日のない場所へ第3話
この話は約1742字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
片や、明日香が入ってくるのを見て、涼太は近づき、自分の体温が残る上着をふわりと肩に掛けてあげた。「外は雨なのに、どうしてここへ?」
明日香は喉まで出かかった問い詰めたい言葉を飲み込んで、こう答えた。「今日は、7回目の結婚記念日だから」
「結婚」という言葉に、彼女はことさら力を込めながら言った。
だが涼太の口調は、相変わらず優しかった。「ごめん。最近、接待で忙しくてプレゼントを用意し忘れてたよ。
何が欲しい?シャネルの新作バッグ?それとも、カルティエのネックレスかな?」
彼は嘘をつくのが本当にうまい。あまりに自然で、疑う余地もないほどだ。
今まで、この人は自分にどれだけの嘘を重ねてきたんだろう。
明日香はバッグの中で、妊娠検査の結果用紙を強く握った。サプライズにするつもりだったけれど、もう必要ないみたい。
そう思うと急に、胃の奥から強烈な吐き気がこみ上げてきた。
すると、彼女はトイレに駆け込み、視界がくらむほど激しく嘔吐した。
だが、それを目の当たりした涼太は逆に眉をひそめ、じっと明日香の顔色を窺った。「もしかして、子供ができたのか?」
明日香は顔面蒼白のまま、首を横に振った。「ううん。なにか悪いものでも食べたみたい」
それを聞いて、涼太はあからさまにホッとした顔を見せ、彼女を支えようと手を伸ばした。「病院まで送るよ」
だが、明日香はその手をそれとなく避けた。「薬を買って飲めば治るから、大丈夫」
外は土砂降りだったけれど、彼女はそう言うと構わず雨の中へと飛び出した。
雨の中で走りながら、彼女は顔を濡らすのが雨なのか涙なのか、もうわからないほどになっていた。
そして、あっという間に、全身がずぶ濡れになった。
そこ頃、東都はもう冬に入っていて、骨の髄まで凍えるほど寒かった。
道端にしばらく立ち尽くしてから、明日香はふらふらと薬局に入った。
店員を見つけ、感情のない声で告げる。「ミフェプリストン錠を一箱ください」
店員は怪訝そうに彼女を見た。「ミフェプリストンは中絶薬で、初期の妊娠を終わらせるための薬ですよ。
どういう薬か、わかってますよね?」
明日香はお腹に手をあてた。そこには今、小さな命が確かに宿っている。
なかなか声が出なかったけれど、ようやく言葉を絞り出した。「一箱ください。これで妊娠を、終わらせたいんです」
涼太と一緒になって5年、ずっと子供ができなかった。
やっと授かった奇跡のような命だ。ありったけの愛を注いで、大切に育てたかったのに。
でも残念なことに、この子の父親は……この子の誕生なんて望んでいないのだ。
彼はあの「忘れられない人」と家庭を作るつもりなんだ。そしたら、自分たち母子の居場所なんてなくなってしまうだろう。
薬を飲んでしばらくすると、下腹部に重い痛みが走り始めた。
何とか立ち上がろうとした瞬間、滝のように血が溢れ出すのがわかった。
そして足の間を、真っ赤な血が流れていった。
一歩動くたびに、耐え難い激痛が体を貫いた。
それはまるで体を真っ二つに切り裂けられるような痛みだった。
結局、自分が夢見た美しい愛も、泡となって消える運命だったんだ。
そう思いながら、明日香は震える手で涼太に電話をかけた。「涼太、私、家に帰りたい」
涼太は彼女の声の異変を敏感に感じ取り、急いで家に戻ってきた。
彼女は血の海に倒れていた。その体の下から広がるのは、異様な赤だった。
それを見た涼太は息を呑み、心臓が早鐘を打つのを感じた。
彼は青ざめた顔で明日香を抱き上げ、大急ぎで病院へと向かった。
すると、医師が同意書を差し出してきた。「青木さん、奥さんの子宮内に組織が残っていて、すぐに除去手術が必要です。
今すぐ、ここにサインをお願いします!」
手術台の上で、まぶしいライトが点灯した。
冷たい器具が体の中をかき回し、身を引き裂かれるような激痛に、明日香は意識が飛びそうになった。
目尻から涙がこぼれ落ちる。彼女は痛みに耐えながら、ぎゅっと瞳を閉じた。
お腹の中が空っぽになった瞬間、明日香の心も空洞になった気がした。
そして、手術が終わった後、彼女は廊下のベンチで長いこと座り込んだ。
どれくらい経っただろう。明日香はスマホを取り出し、ずっと連絡していなかった相手に電話をかけた。
「外の世界での遊びは疲れた。私、もう、家へ帰りたい」
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