愛の果ては、他人でした第3話
この話は約2328字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
誠の心がもう私だけを向いていないのなら……
ここにあるものは全部、今の彼が「いちばん大事にしている人」に渡すのが筋だろう。
そう思いながら、私はハサミを握り、オーダーメイドのスーツをざくりと切り裂いていく。
これが私から誠に贈ったスーツだった。
ちょうどそのとき、玄関のほうでドアの開く音がした。
「ゆい?」
寝室から誠の声が聞こえる。軽く返事だけして、手を止めることはなかった。
足音が近づき、誠がウォークインクローゼットの入口に姿を現す。私の手元を見た瞬間、彼が持っていた紙袋が、危うく床に落ちそうになった。
「……ゆい?」
慌てて駆け寄ってきた誠はそのまましゃがみ込んで、私の手首をぎゅっと掴んだ。
「何してるの?そのスーツ……」
少し首を傾けて、私は彼を見つめる。その顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。
まるで答え合わせでもするみたいに、私は何でもなさそうな調子で口を開いた。
「近くの公園にね、野良猫が三匹も住みついちゃっててさ」
私は唇の端だけで笑ってみせた。
「このスーツ、ちょうどいいかなって。猫たちのベッドにしてあげようと思って」
しばらく、誠は何も言えなかった。やっと絞り出した声は、情けないほど震えていた。
「でも、それ……ゆいが俺にくれた唯一のプレゼントなんだよ?大事にしすぎて、普段もなかなか着られなかったのに」
視線を落として、私は再びハサミを動かす。
──そんなこと、誰よりも私が一番よく分かっている。
だからこそ、これを選んだ。
誠は俯いたまま、ずっと私の手元を見つめていた。
どれくらい時間が経っただろうか。ようやく、少しだけ落ち着いた声音で誠が口を開いた。
「このスーツ、切っちゃったならさ……代わりに、新しいのを一着プレゼントしてくれない?」
顔を上げると、誠の目がこちらを必死に覗き込んでいた。
私はわざと柔らかく微笑んでみせた。
「いいよ。むしろ、ちょうどプレゼントを二つ用意してあるから」
その瞬間、誠の瞳に一気に光が宿った。
「本当?マジで?どこ?どこにあるの?」
子どもみたいな声でそう言って、私をそっと抱き寄せた。
その腕は相変わらず暖かいのに、胸の内側には、冷たいものだけがじわじわと広がっていった。
私は彼を突き飛ばすこともせず、その肩越しに、床にある紙袋へ視線を滑らせた。
ふわりと漂ってくる出汁の匂い。あの中身が何かなんて、見なくても分かる。
海鮮雑炊。誠がわざわざ遠回りして買ってきた、お詫びの品だ。
身体が弱いからって、私を怒らせたときや後ろめたいことをしたとき、誠は決まって、わざわざ街を半周してあの店の雑炊を買ってくる。
つまり、今日も。
花音がどれだけ彼を上機嫌にしたのか、これで嫌でも分かってしまう。
夜中にわざわざ遠回りして、ここまでして機嫌を取ろうとするくらいには。
自分で自分に苦笑して、私は小さく呟いた。
「プレゼントの話は……一週間待ってて。そしたら分かるから」
誠はそれ以上突っ込まず、私の手を引いてダイニングへと連れていった。テーブルの上で海鮮雑炊の容器を開けて、どこか落ち着かない目つきのまま言った。
「飲み会、あんまり食べてなかっただろ。絶対お腹空いてるって。ほら、夜食」
私はスプーンを取り、ゆっくりと雑炊をかき混ぜた。誠がグラスを取りに背を向けたその一瞬の隙を狙って、わざと手を滑らせ、容器をひっくり返した。
テーブルの上に、どろりと雑炊が広がる。
「ゆい!」
振り返った誠が、真っ先に私の手元を確認し、慌てて声を上げる。
「大丈夫!?やけどしてない?」
彼の慌てぶりを、私は冷めた目で眺めていた。
顔を上げた誠が、その視線に気づいたのか、ふいに動きを止めた。
「……大丈夫。片付ければいいから。もしまだ食べたいなら、朝また買ってくるよ」
ぎゅっと握りしめた拳が、かすかに震えていた。
昔の私なら、その震えを見た瞬間、すべてを水に流してしまっていたかもしれない。
「そんなことしなくていいよ」って抱きしめて、甘い言葉をかけていたはずだ。
でも今の私は、ただ静かに立ち上がる。
「ううん、いいよ。もう飽きちゃっててさ。海鮮雑炊には」
視線を落としたまま、心の中で言葉をひとつ足す。
──それから、あなたのことも。
……
誠は、私が何に怒っているのか、最後まで理解していないようだった。それでも、私の変化には気づいていたみたいだ。
その証拠に、それからの二日間、誠はほとんど家に張り付くようにして、私のそばを離れなかった。
本当なら、そんな余裕があるはずもない。
彼の会社、MKTグループがここまで立ち直って、まともな軌道に乗ったのは、まだ半年前のことだった。そこに至るまで、誠がどれだけ必死に働いてきたか、私は一番近くで見てきた。
だから、ここ数年、彼が家にいる時間が少なかったことも、分かっていたつもりだった。
「会社を優先していいよ」
「私は大丈夫だから」
どれくらい口にしてきたのかなんて、もう思い出せない。
それでも、本当のところを言えば——
たまには、全部放り出して、私だけを見てほしい、なんて。
そんな子どもみたいな願いを、心のどこかで抱えていたのも事実だ。
もしもっと前に、こうしてそばにいてくれていたら……
仕事を全部後回しにして、「今日はゆいの日だ」なんて言ってくれていたら……
きっと私は、飛び上がるほど喜んでいたのだろう。
でも今、ソファの隣にずっと座っている誠を見ていると、頭の奥がずきずきしてくる。
その間も、テーブルの上に置かれたスマホからは、何度も着信音が鳴り響いていた。
花音専用の、あの着信音。
誠は、そのたびに画面をちらりと見ては、電源ボタンを押して音を止める。通話ボタンには一度も触れない。もちろん、部屋を出ていくこともない。
鳴りやまない着信音と、それを無視し続ける誠。
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