愛という名の嘘第3話
この話は約2227字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
私はその場に尻もちをつき、腹の奥をえぐるような痛みに息が詰まりそうになった。
昨日、中絶手術を受けたばかりの体で、耕平にあんなふうに突き飛ばされて、平気でいられるはずがなかった。
床に落ちた白杖を拾い上げ、私はどうにか体を支えて立ち上がる。
「目が見えなくても、何もわからないわけじゃない。
あんたたちが私に何をしてきたかくらい、自分たちがいちばんよくわかってるでしょ」
その言葉に、耕平の声がわずかに揺れた。
「俺たちが何したっていうんだよ。俺と香奈美は、そんなやましい関係じゃない。
何か言いたいことがあるなら、いきなり手なんか出さないで、先に俺に言えよ。
こんな騒ぎにして、周りにどう見られるか、少しは考えろ」
私が言い返すより先に、香奈美が泣き出した。
「ごめんね、全部私のせい。勝手に心未を会社まで連れてきたから、こんなふうになっちゃったんだよね。
これからはちゃんと距離を置くから。もう二度と誤解されるようなことはしない。私がいなくなれば、それでいいんでしょ?」
そう言い残すと、香奈美は泣きながら駆け出していった。
耕平も、迷うことなくそのあとを追っていく。
遠ざかっていく足音を聞きながら、私はとうとう立っていられなくなり、その場に崩れ落ちた。
――耕平、もう終わりにしよう。
次に目を覚ましたとき、私は病院のベッドの上にいた。
そのときになって、ようやく耕平から電話がかかってきた。
「心未、今日のことは気にするな。あんな言い方をしたのは悪かった。でも、あの場ではああ言うしかなかったんだ。社員も見ていたし、お前を庇うつもりもあった。
今は病院でちゃんと休んでいてくれ。もう無理するな。俺も今、そっちに向かってる。着いたら、もう一度ちゃんと診てもらおう。
あまり思いつめるな。今年の誕生日は、俺が海外に連れていく。だから、もうそんなに気にするな」
――嘘つき。
私に怒鳴ったとき、その声に滲んでいた怒りを、私ははっきり聞いていた。
あれは演技なんかじゃない。
今さら優しいことを言うのも、私をなだめて、まだ自分の支配の中に置いておきたいだけだ。
私が彼の思い通りにならなくなって、真実に気づくのが怖いだけ。
そして、自分がいちばん大事にしている香奈美に、私が何かするんじゃないかと怯えているだけだ。
でも、もうこんな芝居に付き合うつもりはない。
この目を耕平にくれてやったことで、宍戸家に育ててもらった恩は返したことにする。
これで私と耕平は、もう何の貸し借りもない。
耕平が病院に来たら、私は離婚のことを切り出すつもりだった。
しばらくして、病室のドアが外から開いた。
けれど入ってきたのは、耕平ではなかった。
彼の秘書・葉山徹(はやま とおる)だった。その声には、どこか気の毒そうな響きが混じっていた。
「奥様、社長は急遽海外での案件対応が入ってしまいまして、本日は私が付き添うよう言われております。何か必要なことがございましたら、何でもお申しつけください。
それから、こちらは社長からです。奥様に元気を出してほしいと」
そう言って差し出されたのは、イチゴのケーキだった。
私は無表情のまま答えた。
「……そうですか。わかりました」
手の中のスマホは熱を持っているのに、胸の奥はひどく冷えきっていた。
ついさっき、香奈美の夫が海外で女優とホテルに入ったというニュースが出ていた。
耕平が突然海外へ飛んだのは、きっとその件を処理するためだ。
香奈美のために動いたのだ。
自分でひと言説明することすらせず、適当に秘書を寄こして私をやり過ごそうとした。
しかも、彼は忘れている。
私はイチゴのケーキが大嫌いだ。
両親は、私にイチゴのケーキを買いに行った帰りに事故に遭って亡くなった。
今の耕平の頭の中には香奈美しかなくて、ほかのことなんて何ひとつ見えていないのだ。
翌朝、私は耕平に電話をかけた。
離婚のことは、やはり自分の口で伝えておきたかったからだ。
けれど電話に出たのは、耕平ではなかった。
香奈美だった。
「心未、まさかまだ、耕平があんたと結婚したのは、あんたが好きだったからだなんて思ってるの?」
続いて、眠たげな耕平の声が聞こえてきた。
「香奈美、誰からだ?」
「知らない番号。どうせ営業よ」
そこでぶつりと通話は切れ、耳元には切れたあとの無機質な音だけが残った。
私はもう掛け直さなかった。
もう、遅かった。
着替えを済ませると、私は耕平の邸宅へ戻り、荷物をまとめた。
持ち出したのは、もともと自分がこの家に持ち込んだものだけだった。
気遣わしげな執事には、耕平と旅行に行くことになったとだけ告げた。
署名を済ませた離婚協議書と、あの録音を入れたUSBメモリを、彼の書斎の机の上に置いた。
荷物を手に、私は空港へ向かう車に乗り込んだ。
空港に着いたころ、彼からメッセージが届いた。
【心未、明日の朝には戻れる。こっちでお前の土産も買ってある】
私は返事をしなかった。
スマホからSIMカードを抜き取り、そのままゴミ箱に捨てた。
飛行機がドイツに到着すると、私はそのまま眼科病院へ向かう車に乗り込んだ。
手術室へ運ばれていくその瞬間、不思議なくらい心は静かだった。
この手術が終われば、私はまた目が見えるようになる。
その日の午後、耕平はなぜかひどく胸騒ぎを覚えていた。
まぶたも妙にぴくついて、落ち着かない。
スマホを見て、私がずっとメッセージを返していないことに気づいた彼は、すぐに執事へ電話をかけた。
「旦那様、奥様はご一緒にご旅行へ出られたのではなかったのですか?」
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