恩師の娘を妊娠させた彼とは、もう終わりにする第3話
この話は約1602字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
もう一度だけ、彼にチャンスをあげよう。
私たちの十年に、最後の可能性を賭けてみたい。
鶏肉と大根の煮物をよそっていた聡雅の手が一瞬止まり、その瞳に、一抹の動揺が広がるのが見えた。
空気が張り詰め、彼は何か言いかけたものの、結局何も言わなかった。
目の前にそっと置かれた陶器の器が、乾いた音を立てた。
そして、彼は微笑みながら言った。
「前にずっと言ってたよね?遊園地に行きたいって。もうすぐ君の誕生日だし……一緒に行こうか」
私は黙ったまま、スプーンでスープをかき混ぜ続けた。
その後の数日間も潤音は諦めることなく、「聡雅さんがどれだけ自分に優しくしてくれるか」を逐一メッセージで送りつけてきた。
その一方で、聡雅は毎日欠かさず私のために食事を用意し、朝は歯磨き粉を出してくれ、出勤前と寝る前には必ずキスをくれた。
まるで、別人のようだ。
そして、誕生日当日の朝。
彼は早起きして、私が洗面を終える頃には、食卓に目玉焼きがのったそばが用意されていた。
「紬音、早くおいで。準備ができたら出かけよう。夜は、前から行きたがってたレストラン予約してあるから」
服を着替えてリビングに戻ると、彼は私にTiffanyのネックレスをそっとつけてくれた。
彼は満足そうに私を見つめて小さくうなずき、そっと私の唇の端にキスを落とした。
「似合う。やっぱり、君にはこれがぴったりだと思った」
私はネックレスを見下ろしながら、そっと尋ねた。
「誕生日プレゼント?」
「いや、プレゼントはまだ別にあるんだ」
そのとき、スマートフォンが震えた。
潤音からだった。
【今日は紬音さんの誕生日だって知ってるよ。でもね、私が来てって言ったら、聡雅さんはきっと私のところに来てくれる。信じる?】
私は返信せず、外套を手にした聡雅を見つめた。
その瞬間、彼のスマホが鳴りはじめた。何度も、何度も。
彼は眉をひそめて画面を見つめ、電話に出ず、私のバッグを持ち、手をつないできた。
けれど、車に乗ってからも、着信と通知音は鳴り止まなかった。
赤信号で車が止まったとき、私はついに口を開いた。
「出てみたら?何か急用かもしれないでしょ」
彼は渋々スマホを確認し、表情を曇らせた。
次の瞬間、私のスマホにも通知音が鳴った。
画面には潤音からの新しいメッセージ。
【白石紬音。ねえ、あなたならどう思う?彼、今からでも私のもとへ来ると思う?】
私はその画面を閉じ、顔を上げて聡雅を見た。
彼の顔には、言い訳を考えるような迷いと、後ろめたさが滲んでいた。
「紬音、ごめん。急だけど、事務所から連絡があって……どうしても今日中に会わなきゃいけないクライアントがいて」
その瞬間、私の中で何かが音を立てて崩れた。
十年愛した彼への想いは、その一言で、すべて消えてしまった。
私は黙っていた。
沈黙のなかで、彼は緑の信号に従って車を発進させた。
そして私は、ようやく口を開いた。
「いいよ、行けば?」
そして、しばらく走った後、彼は路肩に車を停めて言った。
「紬音……タクシーを呼んでくれる?夜には戻って一緒に夕飯を食べよう」
私は無言で車から降り、タクシーを呼び、自分ひとりで遊園地へ向かった。
人混みに紛れてパレードを眺めていると、果穂からメッセージが届いた。
【紬音、香坂潤音、今まさに出産中よ。桐嶋、ずっとそばにいる】
私は画面を開き、淡々と一言だけを打ち込んだ。
【知ってる】
そして、喧騒に満ちた園内を離れ、スマホを耳に当てた。
「湊人。知人に頼んで、離婚届のドラフトを準備してもらえない?できれば、すぐに訴訟の手続きにも移れるようにしておきたいの」
電話の向こう、しばらくの沈黙の後、彼は静かに言った。
「わかった。連絡させるよ」
夕暮れ時に家へ戻ると、扉を開けた私を迎えたのは——
部屋一面に散りばめられたバラの花びら、そして、テーブルに置かれたワインとバースデーケーキ、そして花束。
誰もいない部屋に、ただ茜色の光と、無数のバラが静かに息づいていた。
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