思い出の中にだけ、いてほしい第1話
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父の心臓バイパス手術の日、心臓外科のエースである夫の横山竜也(よこやま たつや)は、欠勤していたのだった。
何十回も電話をかけたけど、返ってきたのは【手が離せない】という、そっけないメッセージだけだった。
手術室の外で、私はたった一人で渡された急変連絡書を見ながら、目の前がかすむほど泣きじゃくった。
そして、その日の明け方、竜也が指導している女性実習生のインスタで、キャンドルディナーの写真が上がっているのを見かけたのだ。
写真の中では、あのいつもメスを握っているはずの彼の手は、若い女性のために丁寧にステーキを切り分けているのだった。
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父の心臓バイパス手術の日、心臓外科のエースである夫の横山竜也(よこやま たつや)は、欠勤していたのだった。
何十回も電話したのに、返ってきたのは【手が離せないんだ】というメッセージだけだった。
手術室の外で、私はたった一人で渡された急変連絡書を見ながら、目の前がかすむほど泣きじゃくった。
そして、その日の明け方、竜也が指導している女性実習生のインスタで、キャンドルディナーの写真が上がっているのを見かけたのだ。
写真の中では、あのいつもメスを握っているはずの彼の手は、若い女性のために丁寧にステーキを切り分けているのだった。
一方で、父の手術は終わったものの、その後24時間は集中治療室で様子を見なければならなかった。
それは、生と死を分ける、最後の関門であると言っても過言ではないだろう。
私はドアの外にある冷たい金属のベンチに座って、眩しい赤いランプをじっと見つめていた。周りは静まり返っていて、消毒液の匂いだけが漂っていた。
スマホの画面が、ついたり消えたりを繰り返している中、私は冷え切った指先を無意識にさすっていると、ふと竜也の、あの白くて綺麗な手が頭に浮かんできた。
その手は、かつて結婚式で私の手を握り、永遠を誓ってくれた手だ。
なのに今は、キャンドルの下で他の女のためにステーキを切っている。
フッと、私は軽く嘲笑いを漏らした。
なんだ。竜也の心の中では、私の父が死ぬか生きるかという瀬戸際よりも、あのキャンドルディナーのほうが大事だったんだ。
そう思っていると、廊下の向こうから、慌ただしい足音が聞こえてきた。
竜也が、やっと来たのだ。
白衣姿の彼は、早足で集中治療室のドアの前まで来ると、心配そうに中を覗き込むふりをした。
その優しそうな顔には心配の色が浮かんでいて、まるで理想の婿のように見えた。
私は立ち上がらず、ベンチに座ったまま、彼の芝居を黙って見ていた。
様子がおかしいと気づいたのか、竜也はこちらを振り返り、私の肩に手を置こうと手を伸ばしてきた。
だが、私は、さっと身を引いてそれを避けた。
すると、竜也の伸ばした手は、行き場をなくして宙で止まった。
「絢香(あやか)、すまない」竜也はその場にしゃがみこみ、私の目線に合わせようとしながら言った。「学会が長引いてしまって。終わり次第、すぐに駆けつけたんだ」
そう言いながら、竜也の視線は泳いでいて、充血した私の目をまっすぐ見ようとしなかった。
集中治療室という場所で聞く、彼のくだらない言い訳は、ひどく耳障りだった。
私は何も言わず、ただスマホの画面を彼の目の前に突き出した。
平野睦月(ひらの むつき)のインスタの投稿。キャンドル、赤ワイン、そしてステーキを切り分けている、その手。
それを目にすると、竜也の顔色が一瞬で変わった。
「頭がおかしいんじゃないか?」竜也は声を抑えていたが、怒りを隠しきれていなかった。「お父さんはまだ中で頑張ってるんだぞ。なのに、ここでこんなくだらないことのために俺を問い詰めるのか?絢香、少しは物事の優先順位を考えたらどうだ?」
そう言いながら、彼は立ち上がり、私を見下ろした。
これは竜也がよく使う手段だ。怒りで動揺を隠し、相手を責めることで話をそらす。
それを聞いて、私は顔を上げた。声は大きくなかったが、一言一言はっきりと彼に告げた。
「学会は都心で、このレストランは郊外。間には夕方のラッシュでいつも渋滞する大橋があるわ。竜也、あなたは飛べるわけ?」
すると、竜也は一瞬ぽかんとしたあと、「ここは病院だぞ!」彼の声が急に大きくなった。
「少しは俺の立場も考えてくれ!君がそんなに神経質で疑り深いんじゃ、この先うまくやっていけるわけがないだろう?」
だが、逆ギレして喚きたてる竜也を見て、私はただうんざりしていた。
私の父はまだ集中治療室で治療中だっていうのに、ドアを隔て、外にいるこの男は自分の立場ばかり気にしているのだ。
「静かにして。ここは集中治療室よ。騒いでみっともない真似しないでくれる?」
すると、竜也は私の態度に苛立ったのか、冷たく鼻を鳴らした。
「そんなに俺を信用できないなら、しばらく別居しよう!お互い、頭を冷やす時間が必要だ!」
そう言う竜也の目には、一瞬、得意げな色がよぎった。
今の私は孤立無援であると踏んで、彼は私が泣き崩れて縋ると確信していたのだった。
それが彼の最後の切り札であり、最も得意とする揺さぶりの手口だった。
だが、私は顔を上げて、まっすぐ竜也を見つめた。
「いいわ。でもその話は、お父さんが集中治療室から出て、無事に退院してからにしよう」
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