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思い出の中にだけ、いてほしい第1話

この話は約2124字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。

父の心臓バイパス手術の日、心臓外科のエースである夫の横山竜也(よこやま たつや)は、欠勤していたのだった。

何十回も電話をかけたけど、返ってきたのは【手が離せない】という、そっけないメッセージだけだった。

手術室の外で、私はたった一人で渡された急変連絡書を見ながら、目の前がかすむほど泣きじゃくった。

そして、その日の明け方、竜也が指導している女性実習生のインスタで、キャンドルディナーの写真が上がっているのを見かけたのだ。

写真の中では、あのいつもメスを握っているはずの彼の手は、若い女性のために丁寧にステーキを切り分けているのだった。

* * *

父の心臓バイパス手術の日、心臓外科のエースである夫の横山竜也(よこやま たつや)は、欠勤していたのだった。

何十回も電話したのに、返ってきたのは【手が離せないんだ】というメッセージだけだった。

手術室の外で、私はたった一人で渡された急変連絡書を見ながら、目の前がかすむほど泣きじゃくった。

そして、その日の明け方、竜也が指導している女性実習生のインスタで、キャンドルディナーの写真が上がっているのを見かけたのだ。

写真の中では、あのいつもメスを握っているはずの彼の手は、若い女性のために丁寧にステーキを切り分けているのだった。

一方で、父の手術は終わったものの、その後24時間は集中治療室で様子を見なければならなかった。

それは、生と死を分ける、最後の関門であると言っても過言ではないだろう。

私はドアの外にある冷たい金属のベンチに座って、眩しい赤いランプをじっと見つめていた。周りは静まり返っていて、消毒液の匂いだけが漂っていた。

スマホの画面が、ついたり消えたりを繰り返している中、私は冷え切った指先を無意識にさすっていると、ふと竜也の、あの白くて綺麗な手が頭に浮かんできた。

その手は、かつて結婚式で私の手を握り、永遠を誓ってくれた手だ。

なのに今は、キャンドルの下で他の女のためにステーキを切っている。

フッと、私は軽く嘲笑いを漏らした。

なんだ。竜也の心の中では、私の父が死ぬか生きるかという瀬戸際よりも、あのキャンドルディナーのほうが大事だったんだ。

そう思っていると、廊下の向こうから、慌ただしい足音が聞こえてきた。

竜也が、やっと来たのだ。

白衣姿の彼は、早足で集中治療室のドアの前まで来ると、心配そうに中を覗き込むふりをした。

その優しそうな顔には心配の色が浮かんでいて、まるで理想の婿のように見えた。

私は立ち上がらず、ベンチに座ったまま、彼の芝居を黙って見ていた。

様子がおかしいと気づいたのか、竜也はこちらを振り返り、私の肩に手を置こうと手を伸ばしてきた。

だが、私は、さっと身を引いてそれを避けた。

すると、竜也の伸ばした手は、行き場をなくして宙で止まった。

「絢香(あやか)、すまない」竜也はその場にしゃがみこみ、私の目線に合わせようとしながら言った。「学会が長引いてしまって。終わり次第、すぐに駆けつけたんだ」

そう言いながら、竜也の視線は泳いでいて、充血した私の目をまっすぐ見ようとしなかった。

集中治療室という場所で聞く、彼のくだらない言い訳は、ひどく耳障りだった。

私は何も言わず、ただスマホの画面を彼の目の前に突き出した。

平野睦月(ひらの むつき)のインスタの投稿。キャンドル、赤ワイン、そしてステーキを切り分けている、その手。

それを目にすると、竜也の顔色が一瞬で変わった。

「頭がおかしいんじゃないか?」竜也は声を抑えていたが、怒りを隠しきれていなかった。「お父さんはまだ中で頑張ってるんだぞ。なのに、ここでこんなくだらないことのために俺を問い詰めるのか?絢香、少しは物事の優先順位を考えたらどうだ?」

そう言いながら、彼は立ち上がり、私を見下ろした。

これは竜也がよく使う手段だ。怒りで動揺を隠し、相手を責めることで話をそらす。

それを聞いて、私は顔を上げた。声は大きくなかったが、一言一言はっきりと彼に告げた。

「学会は都心で、このレストランは郊外。間には夕方のラッシュでいつも渋滞する大橋があるわ。竜也、あなたは飛べるわけ?」

すると、竜也は一瞬ぽかんとしたあと、「ここは病院だぞ!」彼の声が急に大きくなった。

「少しは俺の立場も考えてくれ!君がそんなに神経質で疑り深いんじゃ、この先うまくやっていけるわけがないだろう?」

だが、逆ギレして喚きたてる竜也を見て、私はただうんざりしていた。

私の父はまだ集中治療室で治療中だっていうのに、ドアを隔て、外にいるこの男は自分の立場ばかり気にしているのだ。

「静かにして。ここは集中治療室よ。騒いでみっともない真似しないでくれる?」

すると、竜也は私の態度に苛立ったのか、冷たく鼻を鳴らした。

「そんなに俺を信用できないなら、しばらく別居しよう!お互い、頭を冷やす時間が必要だ!」

そう言う竜也の目には、一瞬、得意げな色がよぎった。

今の私は孤立無援であると踏んで、彼は私が泣き崩れて縋ると確信していたのだった。

それが彼の最後の切り札であり、最も得意とする揺さぶりの手口だった。

だが、私は顔を上げて、まっすぐ竜也を見つめた。

「いいわ。でもその話は、お父さんが集中治療室から出て、無事に退院してからにしよう」

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