心臓と共に去った愛第3話
この話は約1739字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
胸の奥にこみ上げてきたのは強い嫌悪感だけだった。
お粥の椀をぐっと遠ざけ、私は目を閉じたまま何も言わなかった。
病室がしんと静まり返ったころ、私と司はまた息を合わせたみたいに同時に口を開いた。
「司、離婚しましょう」
「澄佳、俺、凛沙を京原市に連れて帰ろうと思って――」
……
言い終えた途端、司の激しい怒りが私に向かって噴き出した。
充血した目を見開いた司が、血管の浮き出た腕で私の顎をわしづかみにし、外れそうなほど強く力を込めた。
「澄佳、自分が何言ってるか分かってるのか?いきなり姿を消した俺が悪いのは分かってる。お前が怒ってるのも理解できる。でもいちゃもんをつけて、離婚なんて言葉を軽々しく口にするな!
今の言葉を取り消すなら、全部なかったことにしてやる」
「司、あなたが一番よく知ってるでしょ。私はそんな冗談は言わない。離婚協議書はカバンの中に入ってる。もう署名もした」
司は眉間を指で押さえ、深いため息をついた。
「俺が移植した心臓は、もともと凛沙の彼氏のものなんだ。俺があの子を見つけたとき、川に飛び込もうとしてた。だから代わりに恋人を演じてやってるだけだ。生きる気力を持たせるために。
澄佳、少しだけ大人しくしててくれ。俺が凛沙を京原市に連れて行く。あの子が無事に子どもを産んだら、全部きちんと片をつける」
私は何も言わず、口だけでかすかに笑った。
その「恋人のふり」とやらには、ベッドを共にして妊娠させることまで、ちゃんと含まれているのだろう。
目が合うと、司は気まずそうに視線をそらし、その場から逃げるように出て行った。
私が入院しているあいだ、司本人は一度も病室に現れず、代わりに毎日のように誰かに贈り物だけを運ばせてきた。
今日も同じだった。
けれど、いつもと違ったのは、置いていったばかりのその人たちが、すぐにまた戻ってきたことだ。
「一ノ瀬さん、申し訳ありません。贈り物を間違えてお届けしてしまいました」
顔を上げると、そこにあったのは――どこか濁った筋が入っていて、どうにも好きになれないガーネットのペンダントだった。
そのときスマホが小さく震え、フォローしている配信者の更新通知が画面に現れた。
動画の中では、凛沙が幸せそうな笑顔で、妊娠したことを視聴者たちに報告していた。
彼女の首元では、照明を受けて透き通るように輝くガーネットのペンダントが揺れていた。
心の底から、どうでもいいと思った。
フォローを外し、贈り物と離婚協議書をそのまま病室に置き去りにして、私は京原市へ飛び、仕事に戻った。
一週間後、司は凛沙を大事そうに抱きかかえたまま、別荘へ戻ってきた。
部屋をぐるりと見回したあと、凛沙はちらりと私を見て、わざとらしく口を尖らせた。
「司くんちって、ここ?うーん……ちょっと古くさい感じしない?そういうセンス、あんまり好きじゃないんだよね。ねえ、もっと違うところに住もうよ?」
司は甘やかすように凛沙の鼻先を指でつつき、「いいよ」と何の迷いもなく答えた。
凛沙をなだめ終えると、司は一度部屋を出て、すぐに戻ってきた。
一メートルほど近づいたところで、私は冷たく呼び止めた。
私の嘲るような視線とぶつかるなり、司は奥歯をきしませ、額の血管を浮き上がらせた。
「澄佳、いい加減にしろよ!何度も言ってるだろ、これは全部演技なんだ。俺にも事情がある。どうしてそれが分からないんだ!」
そう吐き捨てて私の腕をつかんだ瞬間、司は、自分でも驚くほど私が痩せてしまっていることに気づいた。
その目に浮かびかけた優しさは、背後でガラスの割れる音と凛沙の痛そうな叫び声に、あっさりとかき消された。
司の瞳が一気に細くなった。
「凛沙、割れたガラスに触るな!手を切るだろ!」
けれど、その一言は一歩遅かった。
真っ赤な血が凛沙の指のあいだから滴り落ち、司は顔色を変えて彼女を抱きかかえると、そのまま病院へと飛び出していった。
足もとにあるものへ、彼は一度も視線を落とさなかった。
踏みつぶされた折り紙の星が床に散らばっているのを見下ろし、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
十八歳の少年だったあの頃、彼は顔を真っ赤にしながら、999個の星と一緒に、自分の心まで差し出してくれた。
二十八歳になった今の彼は、そのすべてを、冷たい顔で踏みにじっていく。
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