心が追いつくまで第3話
この話は約1767字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
言い返そうとした風鈴だったが、その前に和哉は凜の腰を抱き寄せ、そのまま彼女を連れてエレベーターへ。
風鈴は身じろぎ一つせず、エレベーターのドアが閉まるまで目を向けなかった。
――もし振り返ってしまったら。
二人の「幸せそうな背中」を見て、きっと顔から感情が零れてしまうから。
自分に残されたのは、あと十日。
もう十日しかない。
やるべきことは山ほどある。終わらせなければならないことも。
まずは、未発表の写真作品の整理。
一枚一枚が、彼女の心を削って生まれたもの。
ここまで歩んできた、確かな証だった。
家に戻り、それらをまとめて会社へ遺作として託し、退職届を出すつもりだった。
だが寝室の扉を開いた瞬間、足が止まった。
そこに広がっていたのは、見慣れぬ服や小物で占拠された空間。
クローゼットにあったネガやアルバムは引きずり出され、無残に破り捨てられていた。
床いっぱいに広がる惨状。
風鈴は拳を握りしめ、大きく息を吸った。
――言うまでもない、凜の仕業だ。
たとえ数日後には出ていくつもりでも、彼女はもう居場所を奪いに来ていた。
まだ自分はここにいるのに、この家から自分の存在は消されている。
胸の奥に渦巻く息苦しさは抑えきれない。
十日のカウントダウンが始まったばかりなのに、彼女の「記憶」は、すでに跡形もなく壊されてしまった。
*
風鈴は手ぶらのまま会社へ行き、退職届を差し出した。
上司は渋い顔をしたが、彼女の決意を見て言葉を飲み込んだ。
「理由は?」とだけ尋ねられ、風鈴は笑って答えた。
「旅行に行こうと思いまして」
荷物をまとめていると、机の上の写真の束に目が留まる。
気づけば床に座り込み、一枚ずつめくっていた。
撮影時期は違えど、被写体はすべて同じ。
和哉。
角度も表情も様々に、彼の病弱な優雅さ、儚い美しさを切り取っている。
思い出すのは、カメラ越しに見た彼の姿。
多くは隠し撮りだった。
日々を記録するつもりで、結局は「彼を愛する気持ち」を残していた。
写真に写る彼の顔を、指先でそっとなぞる。
長い沈黙のあと、小さな吐息が漏れた。
何度も見返し、頭の中に焼きつけようとする。
本当なら、これは大切に残すはずの思い出だった。
だが今は、消し去らねばならない。
風鈴は束を抱え、ためらいながらもシュレッダーへ。
ガリガリと切り刻む音を聞きながら思った。
――この気持ちも、同じように粉々にできたら。
そう考えて、ふっと自嘲気味に笑った。
自分の愚かさに。
写真もデータもすべて消し去り、同僚の別れを受けて会社を後にする。
だが、外に出た瞬間――またしても和哉と凜に出くわした。
二人は手をつなぎ、隣のビルから出てきたところだった。
先に風鈴を見つけたのは凜だった。
笑顔で名前を呼び、和哉を連れて歩み寄る。
「まあ、偶然ですね。風鈴さん」
風鈴は曖昧な笑みを浮かべた。
「さっき和哉と指輪を見に行ったんです。が多すぎて、選ぶのに迷ってしまって。
もし会えるって分かってたら、相談したのに」
困ったような言い方なのに、目元は嬉しさで輝いていた。
和哉が視線を落とし、甘やかすように言った。
「バカだな。迷う必要なんてない。欲しいなら全部買えばいい」
「えっ……全部?本当に?」
凜は幸せそうに笑った。
「当たり前だろ。俺は早く病気を治して、離婚して――君を迎えたいんだから」
その言葉は凜に向けられていたが、黒い瞳はまっすぐに風鈴を射抜いていた。
その一言一言が、風鈴の胸に容赦なく打ち込まれていく。
心が軋みながらも、風鈴は無理に笑った。
「……そう。じゃあ、先にお祝いを言わせてもらうね」
「まあ、嬉しい!あなたに祝ってもらえると、もっと幸せ」
凜はにこにこと言った。
和哉は彼女の腰を抱きながら、なお風鈴を射抜くように見つめた。
「それで、離婚届にはいつサインする?」
「もうすぐ」
短く返し、風鈴はそれ以上関わらずに足早に立ち去った。
背後に響くのは、二人の甘ったるい声。
「和哉、本当に離婚してくれるの?風鈴さんもいい人よ?」
「バカだな。俺にとって一番は君だ。愛してるのは君だけ」
「本当に?」
「もちろんだ」
「和哉……また私を甘やかしてるんでしょ?」
その先の声はもう届かなかった。
だがビルのガラス越しに振り返ったとき、映ったのは抱き合い、口づけを交わす二人の姿。
風鈴の顔から血の気が引いた。
足を動かすだけで、全身の力を振り絞らなければならなかった。
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