心が追いつくまで第1話
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彼に自分の臓器を提供するまで、あと十日。
蘆田風鈴は心の中で、その日をひっそりと数えていた。
あと十日さえ耐えれば、彼は健康な身体を手に入れ、鬱陶しい替え玉である私は、きっときれいさっぱり捨てられるだろう。
そのあと、好きな人と幸せになった彼は、私のことを思い出してくれるだろうか。
……きっと、ないよね。
* * *
「本当に決めたの?臓器提供は簡単なことじゃないよ。腎臓を一つ譲れば、その後の一生に影響が残るんだ。だから、どうか慎重に考えてほしい」
電話の向こうで教授の声が重く響く。
蘆田風鈴(あしだ ふうりん)は一瞬だけ黙り込み、それから静かに、しかし揺るぎない声音で答えた。
「もう決めています。私が決めたこと、簡単には変わらないって先生が一番ご存じでしょう?」
受話器越しに深いため息が落ちる。
「……そうか。それが君の意思なら、俺は尊重するよ」
「ありがとうございます、先生」
小さく礼を言ったあと、風鈴は声を落とした。
「……できれば、このことは誰にも言わないでください」
「もちろんだ」
通話が切れたあとも、風鈴はしばらく受話器を握ったまま、ぼんやりとテレビ画面を見つめていた。
【先月、神崎グループの後継者である神崎和哉(かんざき かずや)氏が突然倒れ、入院しました――
同グループは「病気ではあるものの、日常生活に支障はない」と発表しており、神崎氏は現在も引き続き会社で活躍しています】
画面の中、和哉の隣には秘書であり初恋相手でもある櫻井凜(さくらい りん)の姿が寄り添うように映されていた。
「病気のとき、そばにリンがいてくれて本当に助かった」
恋愛ドラマさながらのその眼差しに、世間は感動し、正妻である風鈴は「冷たい妻」と叩かれた。
記者ですら言い放つ。
「神崎社長みたいな素晴らしい方を奥さんは大事にせず、病気のときに見捨てるなんて……幸い、櫻井さんがいて良かった。櫻井さんこそふさわしいお相手です」
――ほら、世の中の誰もが二人を「お似合い」だと思っている。
風鈴は小さく息を吐き、リモコンでテレビを消した。ソファに腰を下ろそうとした、その時――
ガチャ、と玄関の扉が開き、和哉が入ってきた。隣には凜。
しっかりと手を繋ぎ、その目元には柔らかな優しさが宿っている。
「……君、まだいたのか?」
風鈴を見た途端、その表情にはっきりした不機嫌が滲む。
「風鈴さんがいるなら、今日は帰るわ。和哉、無理しないでね。……奥さんがちゃんと看病してくれるはずだから」
凜は優しく微笑み、わざとらしくそう言った。
和哉は鼻で笑った。
「看病?彼女が?俺が倒れていた時、彼女が何をしてくれた?電話の一本さえ寄こさなかったじゃないか」
そう吐き捨てるように言い、凜の手を引いて家の中へ促す。
「……これからは、ここが君の家だ」
そう言うと、和哉は膝をつき、丁寧に凜の足元にスリッパを揃えてやった。
まるで――ここが本当に「ふたりの家」であるかのように。
風鈴は、その場に立ち尽くすしかなかった。
――ここは、自分の「家」のはずなのに。
思い出すのは、病室で見た光景。
和哉はベッドで凜の手を握り、寄り添う二人は誰が見ても夫婦そのものだった。
差し伸べかけた自分の手は、そっと降ろすしかなかった。
彼は、自分の命の恩人だ。
無理をしてでも嫁いだのは、自分。
いつかは愛されると信じていた。
けれど、その想いが届かないのなら……もう、いい。
せめてこの手で、彼のためにできる最後のひとつだけを残してあげよう。
「リンは海外から戻ったばかりで知り合いもいない。しばらく家に住んでもらうことにした。油っこいものもパクチーも苦手だから、食事を作る時は配慮してくれ」
まるで家政婦への指示のような冷たい口調だった。
「風鈴さん、誤解しないでくださいね。私は本当に和哉の体が心配なだけで……ほかに何かあるわけじゃありません」
おずおずと凜が言った。
「こんなふうに突然押しかけてしまって……迷惑じゃないですか?」
その言葉に合わせて和哉が風鈴へ視線を向ける。
あからさまな「嫌悪」が、その奥底で静かに滲んでいた。
結婚して数年。愛されていないことは分かっていた。でも、こんな露骨な目で見られるのは……初めてだった。
しばらく沈黙が流れたあと、風鈴は静かに言った。
「……ええ。好きにして」
机の上の書類を取り、和哉へ差し出す。
「朝、あなたの秘書が持ってきたわ。署名が必要だそうよ」
和哉は苛立ったように目を通し、次々と署名していく。
すべてに書き終えると、乱暴に突き返した。
「……持っていけ」
だが、凜の方へ向き直った瞬間、声も表情も優しく変わる。
「リン、上で休もう」
「うん、手、貸してあげるわ」
二人は肩を寄せ合い、階段を上がっていった。
取り残された風鈴は、まるで捨てられた人形のようにリビングに立ち尽くす。
スカートの裾を握り締めた指が震え、噛みしめた唇から、かすかに鉄の味が滲んだ。
――この数年間、彼の口から何度も聞こえた「リン」という名。
あれは、本当に自分のことだったのだろうか。
考えることさえ怖かった。
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