彼女が世界を離れたあとで第3話
この話は約1552字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
「また何を拗ねてるんだ、向音」男はいつものように眉をひそめ、呆れたように言った。
「昨日の夜は接待があって、どうしても抜けられなかったんだ。遥香はまだ若い女の子だろ?あの連中の相手を一人で任せられるわけがない」
「それであなたが代わりにお酒を飲んであげたってわけ?」
「彼女は社会に出て間もないんだ。少しくらい助けて何が悪い?」
向音は思わず笑ってしまった。「私がアルコールにアレルギーを起こした時は、一度でも代わりに飲んでくれた?」
尚真は鼻で笑った。「もう三十路手前の女が、まだそんなことでぐちぐち言ってるのか?お前、自分がまだ二十そこそこの娘だと思ってるのか?
それに、こんな小さなことで離婚だなんて、大げさすぎだろ」
向音は視線を落とし、その目に宿る感情はもう誰にも読めなかった。
確かに、これは「小さなこと」かもしれない。でも、失望とはそんな小さなことの積み重ねでできている。
「そうね」彼女は顔を上げた。頬を伝う涙が堰を切ったように溢れ出した。「尚真、あなた、ずっと私に優しくするって言ったのよ。
私があの日、あの暴漢に車から突き落とされたときから——」
尚真は苛立ちを隠さず、彼女の言葉を乱暴に遮った。「だから何だよ?十年前に一度助けたからって、俺に一生償わせるつもりか?恩を盾にしてるお前のほうが、よっぽど鬱陶しいよ。
向音、お前って、本当に気持ち悪い」
その言葉は、鈍く重く、向音の胸に拳のように食い込んだ。今までのこと——そして過去のすべてが、腐って濁った悪臭のように頭の中を支配していく。
彼女が最も見たくなかった、惨めで情けない過去。
涙は止めようとしても止まらなかった。視界が滲み、足元さえも見えなくなる。
十年もの間、彼女は何度も尚真を救ってきた。でも、自分自身の傷ついた心は、誰にも救われなかった。
そんな彼女の様子に、さすがに尚真もまずいと思ったのか、彼女の抵抗を無視して強く抱きしめた。「ごめん、言い過ぎた。本当に、ごめん……」
これが彼なりの最大限の謝罪だった。
でも、向音はただ吐き気を覚えるばかりだった。
彼女は全身の力を込めて尚真を突き飛ばした。
「触らないで!!
私のこと、気持ち悪いって言ったじゃない!だったら触らないでよ!!」
尚真の表情が一変した。「またヒステリーかよ、向音!」
彼はこめかみに手を当て、困ったように息を吐いた。「向音、泣かないで。悪かったよ。あとで新しくできたレストランにでも行こうか?」
だがその時、尚真の胸ポケットのスマホが場違いな音を立てた。
「尚真さん、生理痛で今日は会社休んでもいいですか?」
電話の向こうから聞こえてきたのは、遥香の弱々しい泣き声だった。「すっごく痛くて病院に行きたいけど、誰も付き添ってくれなくて……」
「じっとしてて、今すぐ迎えに行くから」
尚真は優しい声で彼女を叱るように言った。「だから言ったろ、アイスクリームなんて食べるなって。甘いものばっかり欲しがるなよ」
「うぅ……もう食べないもん……」
向音の涙は、そこで止まった。指先は強く握りしめられ、爪が手のひらに食い込む。彼女は黙って感情を押し殺した。できるだけ、惨めに見えないように。
「でも、尚真さんが来たら、向音さん、怒っちゃうかも……」
「今そんなこと気にしなくていい」彼は眉をひそめた。「向音は優しい人だから、怒ったりしないよ」
通話はあっけなく切れた。
「さっきのレストランの話、また後で——」
「行ってあげて。運転、気をつけてね」彼が言い終える前に、向音はすでに彼のスーツジャケットを差し出していた。その布地についた甘ったるい香水の匂いに、彼女はまた吐き気を覚える。
尚真の目には、一瞬読めない光が宿った。
彼が出て行くと、向音はそっと自分の感情を拾い集め、静かにタクシーを呼んだ。
この子は——もう……守れない。
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