彼女が世界を離れたあとで第1話
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これは、朝倉向音(あさくら・しおん)が白石遥香(しらいし・はるか)に支えられながら橘原尚真(たちはら・しょうま)が出てくるのを見るのは、決して初めてのことではなかった。
男は何かをぶつぶつと呟きながら、酔いと酒の匂いをまとっていた。隣で彼を支える小柄な女性の瞳には、水気を湛えたような不安が浮かんでいる。
彼女は、彼の世話を焼く若い秘書だった。
冷たい風が吹き抜けても尚真の酔いは醒めることなく、かえって二人の距離をいっそう近づけるだけだった。
向音は眉をひそめた。
* * *
朝倉向音(あさくら・しおん)は車を路肩に停めると、家の使用人に電話をかけて食事の片づけを指示した。
「でも奥様、せっかくお作りになったお料理を……」
桧山忠信(ひやま・ただのぶ)の戸惑いを、彼女は淡々と断ち切った。「大丈夫、全部処分して」
車を降りて近づこうとしたそのとき、橘原尚真(たちはら・しょうま)の口からぽつりとこぼれた。
「遥香、もっと早く君に出会えていたら……」
その言葉に、白石遥香(しらいし・はるか)は頬を赤らめた。「橘原社長、そんなこと言わないでください。
だって、まだ向音さんがそばにいるじゃないですか」
「向音……」尚真はわずかに意識を取り戻したようだったが、その瞳はまだ焦点を結んでいない。
「ふっ、実は向音ってさ、汚れてるんだ。君、知らないだろ?
俺はあいつを愛してる。でも、俺、潔癖なんだよ。あいつは……」そこで彼は言葉を飲み込んだ。
「君みたいに綺麗じゃない」
遥香は向音の存在に気づいたようで、わざとらしく甘えた声を重ねる。
「やだあ、橘原社長ったら酔ってるんですよ、もう、何言ってるんですか」
「酔ってないさ。俺が言ってるのは全部、本当のことだ」
彼は、すぐ後ろに向音が立っているとは気づかぬまま、ふらついた足取りでまだ喋り続けていた。
「彼女の気持ち、何度も試したんだ。身体は汚れてた。でも、心は違う。今でも、俺のこと……愛してるんだ」
今でも俺のこと、愛してるんだよ、あいつ」
まだ何かを語っていたが、それ以降の言葉はもう向音の耳には届かなかった。
彼女は全身の力で感情を抑え、黙って遥香の前に歩み出て尚真を引き取った。
「向音さん……」遥香はにこりと笑い、わざとらしい無邪気さで言った。
「さっきのこと、私、ぜーんぜん聞いてませんからね。
食事の席で、橘原社長がいっぱいお酒飲んで私をかばってくれて……私、もう大丈夫って言ったのに、どうしてもって……」彼女は向音をまっすぐに見つめながら言う。
「橘原社長みたいな人、向音さん、ちゃんと大事にしてあげてくださいね」
向音は言葉を返さず、ただ尚真を黙って車へと運び込んだ。
遥香と違う、向音の淡い香りに気づいたのか、尚真の瞳がわずかに澄み渡った。
「向音、来てくれたんだ。
今日は結婚記念日……だよな……」
「いいの。ただの記念日だもの。何年に祝っても同じでしょう?」
彼はまだ朦朧としたまま後部座席に横になり、そのまま静かに眠りへと落ちていった。向音は片手でハンドルを握りしめ、もう一方の手でギフトボックスを指先で撫でていた。
中には、妊娠検査薬が入っていた。それは、彼に贈るはずだった三周年のプレゼント。
けれど今となっては伝える必要などないと思った。
彼女は唇を固く閉じ、胸の奥から湧き上がる衝動を必死に飲み込んだ——このまま、彼と一緒に終わってしまってもいい。
そんな衝動が一瞬彼女の心を支配した。でも、それはできなかった。
怒りと絶望が容赦なく心を食い荒らしていく。十年前、あの悪夢のような出来事が、まるで昨日のことのように思い出される。
血にまみれた尚真、真っ暗な裏路地、そしてあの黒く不気味な車——
やっとの思いで封じ込めた記憶。だが彼のたった一言がそれを簡単に引き裂いた。
「向音は汚れてる」、「向音の気持ち、何度も試したんだ」と彼が言っていた。
向音がこの世界に転生して十年が過ぎていた。そして今、彼女は初めてこの世界に留まったことを深く後悔していた。
尚真の憐れみの目も、あの暴漢も、彼の愛も抑制も、すべてが幻だった。
本物だったのは、自分の絶望と癒えない痛みだけ。
元々は、任務を果たすためだけにシステムによってここに送り込まれた存在。任務を終えたあと、彼は涙を流しながら抱きしめ、「行かないでくれ」と縋ってきた。
そして、彼女もまたその不器用な愛に、心の底から惹かれてしまった。
だが、ようやくわかった。システムがなぜ「任務を終えたら、すぐにこの世界を離れるように」と告げたのか。
「あなたたちの結末はここまでで十分です」
ハンドルを握る手が震えた。目から静かに涙がこぼれ落ちていく中、ふいに、脳内に馴染みのある機械音が響いた。
「宿主様、こんにちは。元の世界への帰還意思を検知しました。
指令を実行してもよろしいですか?」
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